【6】18きっぷで日帰り水郡線の旅
年があけて、1月も早半分が過ぎた。
先日、チケット屋で18きっぷの残り1回分を格安で手に入れることができたので、それを握りしめて新年最初の列車旅、水郡線乗りつぶしの日帰り旅行へ出かけた。
水郡線は、茨城県の水戸駅から福島県の安積永盛駅までを結び、都心からのアクセスも悪くないながら、路線長137.5km(本線のみ)で全線が非電化と本格的なローカル線の風情を味わえる。
今回は、常磐線で水戸へ向かい水郡線を乗り通して郡山に出てから、東北本線に乗り換えて南下する周遊ルートを取ることにした。
まだ夜明け前の上野駅からスタート。6時4分発の常磐線水戸行きの列車に乗り込む。冬の朝は凍てつくような寒さだけど、列車の中は暖房が効いていて暖かい。早朝でまだ乗客は少なく、ボックス席の進行方向側を選んで座る。
朝早かったこともあって、車中はほぼずっと眠りこけていた。目が覚めると、終点までもう一息の内原駅を過ぎたあたりで、車内はいつの間にか通勤・通学客で溢れていた。長い間同じ姿勢を取り続けて悲鳴を上げる腰に手をやりながら窓の外に目を向けると、とうに空は明るくなっていて、枯れ草色に広がる農地には白霜が降りている。こちらの方もかなり冷え込んでいるようだ。
列車はちょうど8時に水戸駅に着いて、ほかの乗客に押し流されながら改札フロアへ上がり、水郡線の発着する1番線・2番線ホームへ向かう。常陸大子・郡山方面へ向かう列車は9時22分発まで無く、まだ1時間以上余裕があるので、先に上菅谷駅から枝分かれする常陸太田支線を乗り通すことにした。
列車を待っていると、先に1番線に折り返し9時22分発の郡山行きが入線してきた。折り返しの発車までかなり時間があるので、てっきり乗客を締め出して発車直前まで留置するのかと思ったが、どうやらそうではないようだ。
一方の2番線には、郡山行きより少し遅れて、8時17分発の常陸太田行きが2両編成で入線してきた。席取り競争に参加せずに写真を撮っていたので、座席は取り逃してしまった。車内は沿線の高校へ通う生徒が大半を占めていた。
車両はキハE130系気動車。新型車両のイメージがあるが、水郡線の車両がキハ110系から全て置き換えられてから既に10年以上が経っている。
常陸太田行きは水戸駅を定刻に出発すると、すぐ常磐線と別れて左へ大きくカーブし、震災後に新しく付け替えられた橋梁で那珂川を渡る。そのあとは平地を国道349号線に沿って北上していく。この辺りは水戸のベッドタウンに当たる地域で、駅間距離も1~2kmと短めだが、車窓は農地と住宅が混在する長閑な風景である。乗客のうちの多くを占める高校生は途中の後台駅で下車し、一気にがらんとした雰囲気になった。
水戸駅から20分弱で、上菅谷駅に到着。この駅から常陸大子・郡山方面へ向かう本線と、常陸太田方面へ向かう支線に分岐する。この列車の通る常陸太田支線は、支線扱いではあるが本線より先に建設され、1897年に太田鉄道として開通した。本線も含めて水郡線が全通するのはそれから40年近く経ってからのことである。
常陸太田行きの列車は途中小さな駅にいくつか停まり、終点の常陸太田駅には8時49分に到着。上菅谷駅からは14分の道のりである。この駅は1日の平均乗車人員が1000人を超える、水郡線の単独駅としては最も利用客の多い駅だが、ラッシュを過ぎたためか駅構内に人は少なくのんびりとした佇まいである。
折り返しの列車が9時15分発で、それまで少し時間がある。何をしようか考えていると、そういえば昔、日立電鉄がこの付近まで鉄道を敷いていたことを思い出して、その遺構が何かないか探してみることにした。ネットで調べると、日立電鉄の常北太田駅跡地は丸ごとドラッグストアに転用されていて、JR駅のロータリー付近の交差点を跨いですぐのところにあるとのこと。このドラッグストアはかなり駐車場が広くて、往時の駅の広い構内が偲ばれる。しかし残念ながら、時間内にこれといって当時の遺構や記念碑などを見つけることはできなかった。
常陸太田駅に戻って折り返しの水郡線の列車に乗り、上菅谷駅まで乗車。
上菅谷駅からは、先ほど水戸駅で入線を眺めていた郡山行きの列車に乗り換えた。長い4両編成の列車だが、地元客や18きっぷ利用者と思われる乗客で座席は7割方埋まっていた。
少しずつ駅間が伸び、駅周辺を除けば人家は疎らになっていく。常陸大宮駅を過ぎると、列車は八溝山地に入って登り勾配が続くようになり、エンジンを唸らせながら前へ前へと進む。山方宿駅付近から先は、久慈川に沿って走り、車窓からも久慈川の流れを眺めることができる。しばらく行くと西金という駅があり、この駅の構内には、付近の採石場から採掘した線路用砕石を積み込む専用側線がある。駅停車時に、砕石を積むホキ800形貨車を見ることができた。
西金駅のふたつ先の袋田駅で下車する。上菅谷駅からはおよそ50分。この駅からバスに乗って、今日一番の目玉・袋田の滝へ向かう。駅から滝へ向かうバスは1日に4本しかないが、基本的に列車と接続がとられるようになっているので、さほど不便さは無い。
終点の滝本というバス停で降り、そこから滝の入口まで5分くらい歩く。行きがかりにはお土産屋や食堂が立ち並んでいて、店員さんたちが滝の見物に来たマイカー客を我先にと自陣の駐車場に引き摺り込もうとする、観光地お馴染みの光景が繰り広げられている。
入口で入場料300円を支払い、岩盤をくりぬいて作られたトンネルを通っていざ観瀑台へ。
袋田の滝といえば、日本三名爆のひとつにも数えられ、長さ120m・幅73mの大きさを誇る茨城県を代表する観光地のひとつである。前日このエリアではマイナス8度くらいまで冷え込んだようで、滝を流れ落ちる水流が7-8割方氷結しており、美しい氷瀑になっていた。トンネルの奥にあるエレベーターで昇ると、さきほどの観爆台より50mほど高い位置から、袋田の滝の全景を眺めることができる。この位置からだと、通称「四度の滝」と言われる所以の一説となった、水流が岩肌を4段に流れ落ちる姿の全貌が見られ、袋田の滝のスケールの大きさを実感できる。
もう少し時間があれば、この辺で昼食を摂ろうかとも思ったけど、このあと乗車する列車の出発時刻が差し迫っていたので、袋田駅に戻ることに。帰りはバスの時間が合わず、3kmほど歩いて袋田駅に戻った。
袋田駅12時29分発の列車に乗って水郡線を北上していく。この列車は普段は次駅の常陸大子までの運転だが、この日は臨時列車として郡山駅まで運転される。
常陸大子駅では30分ほど停車時間があるので一旦改札を出て、昼食に駅前にある蕎麦屋で山菜蕎麦をいただく。
食べ終わってもまだ時間があるので、駅まわりを少し見てみることにした。
常陸大子駅の位置する大子町は、茨城県北西部に位置する人口およそ1万7000人のこじんまりとした町で、先ほど訪れた袋田の滝や、奥久慈しゃも(地鶏)などで有名なエリアである。町の中心駅である常陸大子駅は、水郡線の営業所(車両基地)を持つ重要な運行拠点になっていて、多くの列車がこの駅で水戸方・郡山方にそれぞれ折り返していく。駅舎にはヤマザキショップが併設されていたり、駅前には蕎麦屋やしゃも料理の食べられるお店があったりで、貧乏鉄道旅行で陥りがちな、そこそこ大きい街の駅前なのにコンビニも無く飲食店も潰れていて空腹に喘いで死ぬ、という事が回避できる点で大変ありがたい。さらに駅舎を出て右側にはC12形の蒸気機関車が静態保存されており、鉄道ファンとしては見所の多い駅である。
ちょうどC12を写真に収めている時に、袋田駅から同じ列車に乗った男性に「観光ですか?」と話しかけられた。「そうです」と答えると、男性は駅近くの玉屋旅館で販売されている奥久慈しゃも弁当を少し得意げに見せてくれた。「駅弁マニアには幻の駅弁って呼ばれてるんですよぉ」と話す様子はとても嬉しそう。僕は駅弁の存在自体は聞いたことがあったけど、予約販売が主だと思っていたので、ついさっき駅前の蕎麦屋で済ませてしまった。でも男性の話を聞いているうちに、何だか羨ましくなってきてしまったので、ダメ元で玉屋旅館へ行ってみる。
扉を開けると、販売係のおばあちゃんが玄関にちょこんと佇んでいた。弁当があるかどうか聞いてみると「これ〇〇さん(知らん人)の予約してるやつだけど持ってって〜」と、見ず知らずの人のモノになるはずであろうお弁当を渡してくれた。いいのかそれで。
話を聞くと、予約していなくても3〜4分くらいでお弁当は用意してもらえるようなので、ありがたくいただいて玉屋旅館を後にした。値段は1180円。
発車時間が近づいてきたので急いで駅へ向かい、郡山行きに乗車。定刻に出発した列車は再び山地に分け入り、八溝山地と阿武隈高地の間を縫うように走る。ひとつ先の下野宮駅を過ぎると、いよいよ県境を跨いで茨城県から福島県へ入る。
常陸大子の駅前で蕎麦を食べたばかりだけど、せっかく幻の駅弁「奥久慈しゃも弁当」を購入したのでいただくことにする。「奥久慈しゃも」は全国の地鶏品評会で高評価を受けた名品とあって、否が応にも期待が高まる。
食べてみると、たっぷり載った鶏肉は脂が少なくサッパリした味わいで、タレの染み込んだご飯と相性がとても良い。笹掻きゴボウと、しゃもの卵で作った炒り卵もとてもいい引き立て役になっている。もちろん作り立てで仄かに温かさも残っていて、抜群に旨い。列車内で車窓に映る景色を肴に食べられるのも駅弁ならではで最高。大盛り山菜蕎麦を食べた直後だったけどペロリと食べ切った。ご馳走さま。
この駅弁を買うきっかけになった男性に出来れば直接お礼を伝えたかったけど、その後お見かけしなかったのでこの場を借りて御礼申しあげます。どうもありがとう。
しばらく乗っていると、磐城棚倉という駅を通る。この駅を経由して、JRバス関東が白棚線として白河駅から祖父岡までのバス路線を運行している。白河駅と磐城棚倉駅を結んでいた旧国鉄の白棚線が戦時中に不要不急路線として廃止され、線路跡地の一部がバス専用路線として転用されている。現在全国に広がりつつあるBRT(バス高速輸送システム)のはしりと言われている路線である。
磐城棚倉駅から3駅先の磐城石川駅では、行き違いで15分停車。気分転換と行き違い列車の撮影がてらホームへ降りると、「名産石川石」と書かれた石碑があった。気になって後で調べてみると、石川石はこの地域で発見された独立種の鉱物で、ウランを含むため、戦時中は原子爆弾の材料として勤労動員により盛んに採掘されていたようである(Wikipedia参照)。そのため戦後はGHQによって回収されたそうだが、「名産」と謳っているわりに中々物騒な歴史を持つモノだった。
磐城石川駅を過ぎてしばらくすると、今度は阿武隈川の左岸に沿って走るようになる。この辺りまで来ると視界がだいぶ開けてくる。泉郷駅は福島空港に最も近い駅だが、路線バスなどの接続は無い。
車内には、自分と同様18きっぷで水郡線を乗り通すと思われる乗客のほかに、授業終わりの高校生の乗り降りや地元客の利用もちらほら。窓からは西日が柔らかく差し込んで、ほのぼのとした雰囲気である。
この付近では阿武隈川を挟んで5kmくらい離れたところを東北本線と並走する。磐城守山駅を過ぎると、右側には郡山市街を望めるようになり、ついに終点が見えてくる。東北新幹線の高架線と交差するほんの少し手前で東北本線と合流し、安積永盛駅まで並走する。水郡線の終点はこの安積永盛の駅だが、全列車が隣の郡山駅まで直通する。
こうして常陸大子駅から2時間10分掛けて、15時17分に郡山駅に到着。朝に乗った支線の往復を含めると実に4時間近く水郡線に乗っていたことになるけど、なかなか変化に富んだ車窓が見られたし、途中駅での散策も楽しめて予想以上に充実した時間だった。きっと新緑の季節にはまた違った車窓が見られるのだろう。
郡山駅からは東北本線に乗って南下していくが、少し時間を設けて郡山の街を歩いてみることにした。自分にとって郡山は新幹線か寝台特急で通過するか乗り継ぎで利用するかのみの駅だったので、改札を出るのはこれが初めてだ。
西口を出て北側すぐの所にはビッグアイと呼ばれる福島県内で最も高いビル(地上133m)があり、入場無料の展望ゾーンがあるので登ってみることに。展望ゾーンから見下ろす郡山市街はことのほかコンパクトで、東側には阿武隈高地を、北側には遠く安達太良山を望める。展望ゾーンには、郡山駅を再現したNゲージのジオラマや列車の運転シュミレーターがあり、古くから交通の要衝として栄えた郡山らしさを感じられる。
他にもビッグアイには、地上からの高さが世界一のプラネタリウムを持つ郡山市ふれあい科学館があったり、8階から14階の間には県立の定時制・通信制の高校が入っていたりと、かなり公共性の強い高層ビルである。
ビッグアイを後にして、夕方でまだ人の少ない駅前のアーケード街を少し歩き、郡山駅に戻った。
郡山駅からは一路東北本線を南下して東京方面へ戻る。16時27分発の新白河行きに乗る。E721系の4両編成だが、学校帰りの学生などでかなり混雑している。
しばらく走っていくと日が沈んで、列車は夕闇の中を突き進んでいく。さっきまでローカル線の気動車に乗っていた所為もあるだろうか、東北本線は線形も良くかなりのスピードで飛ばしている。郡山から34分、終点のひとつ手前の白河駅で下車。兼ねてから興味のあった白河ラーメンを食べることにした。
駅徒歩10分にある茶釜本店に入り、中華麺を注文する。ラーメンはあっさりめの醤油味で、中太縮れ麺がスープによく絡む。昔ながらの温かい雰囲気のお店で、美味しくいただけた。
お店を出て白河駅へ舞い戻る。白河駅の駅舎は、大きな三角屋根が特徴の洋風の木造駅舎で、夜になると周囲のイルミネーションと共にライトアップされてより一層美しさを増す。駅のホームにかかる屋根も木造で、内側は白く塗られていて独特の重厚感があり、長大なホームはかつて長距離列車が発着していた頃を偲ばせる。
しばらくホームで待ち、郡山方面からやって来た18時5分発の列車に乗る。以前であればこのまま一本で黒磯まで行けたのだが、2017年に行われたダイヤ改正で黒磯駅構内の電力設備が変わり、今乗っている列車の電気方式のままでは乗り入れることが出来なくなったため、次駅の新白河での乗り換えを強いられるようになった。
新白河駅では同一ホーム上の前寄りに黒磯行きの列車が停まっているため、乗り継ぎ先で座席を確保しようと新白河到着前から先頭車両に人がわらわらと集まり始めた。新白河〜黒磯間を走るのは5両編成のE531系と2両編成のキハ110系気動車の2種類があるが、時刻表を見ると充当されるのは両数の少ない後者だった。
新白河駅に到着して扉が開いた瞬間、乗り継ぎ待機組はみなダッシュ。僕もその後ろから急ぎ足で乗り継ぎの列車へ向かって、何とか座席を確保した。列車の写真や駅名標などは撮り損ねてしまった。
次の乗り継ぎ駅、黒磯駅までは25分ほど。少しうとうとしながら乗っているとあっと言う間だった。
黒磯駅からは宇都宮行きの205系に乗り継ぐ。このまま寄り道せずに帰るのもいいけど、せっかく18きっぷで乗車しているので、未乗区間の烏山線に乗ろうと思い宇都宮の2つ手前の宝積寺駅で下車した。
初めて訪れた駅だけど、幾何学模様に配置された天井の木材が印象的でデザイン性がとても高い。何となく隈研吾デザインっぽいな、と思ってググったら本当に隈研吾さんの設計だった。東口の駅前にはなかなかセンスのいいイルミネーションもあって、お堅い駅名のわりにおしゃれな所だなあと感じる。
ホームに戻って少し待っていると、7分ほど遅れて19時46分発の烏山行きの列車が入ってきた。宝積寺駅と烏山駅を結ぶ全長20.4kmの烏山線は全線が非電化の路線だが、走っているのは電車である。EV-E301系という形式の、リチウムイオン電池を搭載した蓄電池駆動の電車なので、非電化区間でも走ることができる。夜の帳が下りて車窓に期待できないにも関わらず未乗区間に乗ろうと思ったのは、この車両に乗ってみたかったのが大きい。
車体はJR東日本でも近年取り入れられるようになったsustina車体で、内装も、明かりがLEDの間接照明になっていたり乗客向けにLCD画面でエネルギーフローを図解していたりと、この車両に対する意気込みを見てとれる。
電車らしく、走り出しがとてもスムーズで揺れはほとんど感じない。
昔ながらのキハ40系気動車からこの最新の技術を用いた蓄電池駆動電車への世代交代は、鉄道に詳しくない地元利用者にとっても隔世の感があったのではないだろうか。
宝積寺駅から30分強で終点の烏山駅に到着。走行中は下ろしていたパンタグラフを上げて、1両分の長さだけ設けられた剛体架線から充電する。かつては2面2線の駅だったが、ホームの片方をこの充電設備のためのスペースとして利用しているため現在は1面1線である。
さすがにこの時間だと、乗客が降りていくとシーンとした雰囲気になる。駅舎や列車を写真に収めたら、底冷えする前に車内に戻って折り返しの発車を待つ。発車3分前に流れる「ふるさと」の発車予告メロディーが、何となく物寂しさを感じさせる。
20時55分、僕のほかに部活帰りの高校生数人を乗せた列車は、宇都宮に向けゆっくりと出発していった。
振り返ってみると、今日1日朝から晩まで、思いがけず多くの種類・形式の列車に乗ることができた。自宅最寄り駅からの列車も含めて数えてみると実に10種類。気動車も電車も、電車の中でも直流・交流・交直両用・直流の蓄電池駆動とバリエーションも幅広い。なかなかここまで多くの種類の列車に乗れる日も無い気がする。
トピック性にはやや欠ける地味な旅路ではあったけれど、スマホ片手にいろいろ調べながら乗っていると、その土地特有の歴史とか小ネタなど色々な発見があった。多分ブラタモリなどの影響もあると思うけど、そういうことを旅しながら知っていけるのが今は楽しくて、ただ全国をスタンプラリーで穴埋めするように巡っているだけだった以前の自分より少しは大人になったのかな、と思う。まだまだ未熟者ですが。
今年も色んなところへ出かけられたらいいな。
【5】鉄道ファンが2万字と134枚の画像で綴る台湾旅行記
【まえがき】
日本人の海外旅行の行先としてポピュラーな台湾。日本から近くて時差も僅かに1時間、陽気で優しい人が多く、この季節でも日中はTシャツで過ごせるくらい暖かい。
そんな台湾へ、11月の下旬に気のおけない友人と男ふたりで3泊4日の旅程で出かけてきた。その様子を備忘録的な意味も含めてこれから記していきたい。僕は緩やかな鉄道ファンなので、そういう目線での記述が多くなることは最初にお断りしておく。
なお、僕は今回の台湾旅行にあたって、初っ端の空港へ向かう(日本の)電車内で財布を紛失し、パスポート以外の身分証やカード類や現金を全て失ったドン底の精神状態からスタートしている。そういった背景を加味して読んでいただけるとより文章に味わいが出るかもしれない。
何より当座の旅行資金を無利子で貸与してくれた同行の友人には頭が上がらない。スペシャルサンクスtoマイフレンド。
【本編】
《1日目》台北王道観光編
さぁ、気を取り直して! 3泊4日の台湾旅行が始まる。
今回は旅行会社のツアーパックで
〈往復の航空機代+朝食付きホテル3泊+空港送迎付き〉
という内容のもの。現地は基本自由行動である。
友人にとっては初めての、自分にとっては高校卒業時にひとりで1週間ほど放浪して以来の訪台になる。
なお以下に出てくる料金は全て現地通貨(NT$=ニュー台湾ドル)で、2018年11月現在、1NT$≒3.8円。概ね4倍すると日本円換算になる。
現地時間の午前11時頃、台北の中心部にほど近い松山(ソンシャン)空港に降り立った僕たちは、現地のおばあちゃんツアーガイドに連れられて3泊お世話になるホテル・一楽園大飯店へ向かった。
「台北のシブハラ」と形容される西門(シーメン)の近くにあり、利便性が良く、スタンダードなランクで客室は綺麗とは言い難いものの、最低限の居住性は確保されたホテルである。お湯もちゃんと出る。
ホテルに荷物を預けるともうお昼時になっていたので、近くの牛肉麺(ニョウロウメン)が食べられるお店に入って昼食をいただくことに。
牛肉麺は台湾の代表的な国民食のひとつで、柔らかく煮込んだ牛肉と薄味のスープが特徴の中華麺である。味付け自体は薄めだけど、スープを一口すすると独特のクセのある香辛料の味がする。刺激臭というわけではないものの、やや香りが強く、少し甘めで少し苦い。その要因は八角や五香粉と呼ばれる香辛料で、台湾では煮込み料理をはじめ、様々な料理に使われている。
この風味を受け入れられるか否かで台湾旅行に対する満足度はかなり変わってくると思う。正直自分はあまり得意な味ではなく、高校卒業時に来た時は1週間の滞在で体重が2kg減ってしまうくらい、この味には馴染めなかった。
一方の同行の友人は全く気にならないようで「旨い」を連呼しながら食べていた。かなり好き嫌いの別れる味のようである。エスニック系の料理が好きな人は比較的受け入れられやすいのではないだろうか。
僕も食べ進めるうちに、「そういえば台湾の食べ物ってこういう味付けだったよなあ」と何だか懐かしむような気持ちになる。すごく美味しい、とまでは思わないけど、月日が経って味覚が変化してきたのか、ある程度自分の舌の受容できる範囲が広がったみたいだ。ご馳走さま。
お腹を満たした後は、いよいよ台北の街巡りに出発する。
まずは台北の大動脈である台北捷運(ジェユン/MRT・都市電車)に乗って、龍山寺(ロンシャンスー)へ。西門駅へ向かい、券売機で切符を買うのだが、僕たちは悠遊卡(ヨウヨウカー/Easy card)と呼ばれる ICカードを購入した。100NT$掛かるが、捷運は2割引き、台鐵(台湾版JR)も近距離なら1割引きで乗車することができ、バスやコンビニでも利用できる。海外では煩わしくなる小銭のやり取りを減らせる便利なカードである。利用が終われば手数料を差し引いて残額とカード代を払い戻してもらえるようだが、有効期限が無いので次に台湾を訪れる時まで取っておくのも可能である。
西門駅から板南線に乗り、ひと駅で龍山寺駅に着く。料金は切符だと20NT$。悠遊卡利用なので16NT$。とても安い。
龍山寺は 1738年に創建された台北最古の寺院で、本尊は仏教の観音菩薩だが、道教や儒教など様々な神様も祀られている。建物は、薄橙色の屋根瓦に、柱には金色の装飾が施され、大棟の両端には鯱鉾ではなく大きく口を開いた龍が飾られていて、全体として豪華で賑やかな印象を受ける。
境内では老若男女問わず多くの人が真剣にお祈りをしていた。たくさんの神様が習合しているから御利益も多岐にわたるというので、僕も失った財布が戻ってくるように強く祈念しておいた。
龍山寺を後にして周囲の門前町を散策していると、一見すると台湾っぽくない、赤レンガが特徴的なバロック様式の建物が現れた。剥皮寮(ポーピーリャオ)と呼ばれていて、字面だけ見たら日本統治時代か国共内戦時代の拷問施設かと思ってしまったのだが、実際は、かつて大陸から運ばれてきた木材の皮を剥いで加工した場所であったことからその名称になったそうだ。当時に関する資料の展示もあるようだが、残念ながら定休日(月曜日)だった。
龍山寺駅に戻り、捷運に乗って次の目的地へ向かう。
台北の街を網目のように張り巡らせている捷運は、高頻度運転で運賃も安く渋滞知らずと、旅行者にとっても強い味方である。比較的近年に営業を開始したこともあって、車両も新しく駅の設備も基本的に綺麗で快適である。車両は一部の路線を除いて日本の在来線より少し幅広で、捷運の6両編成の列車の乗車定員は日本の在来線の12両分以上に相当するという。
車内の椅子が硬いプラスチック製なのはいけ好かないけど、基本的に短時間の乗車なので尻に爆弾を抱えているような人でなければ気にならない程度である。
ただ個人的には、列車が右側通行なのになかなか慣れず(台鐵や高鐵=台湾版新幹線 は日本と同じく左側通行)、滞在中に2度も乗る列車の方向を間違えてしまった。
また駅構内や車内では飴やガム、ペットボトルの飲料も含め飲食禁止なのも注意すべき点である。僕は友人に対して「こういう決まりがあるからね」と注意を促した立場にあるにも関わらず、つい無意識下で捷運の列車内でペットボトルに口をつけてしまい、友人から「オイ!」と言われて我に返り、慌ててバッグに仕舞った。
西門駅へ戻り、松山新店線に乗り換えて2駅で中正紀念堂駅に着く。次の目的地、中正紀念堂への最寄り駅である。
中正とは中華民国の初代総統である蔣介石の本名で、中正紀念堂は彼の顕彰施設として、没後5周年の1980年に完成した。
25万㎡の広大な敷地内には紀念堂の本堂のほかに国家戯劇院(オペラハウス)と国家音楽庁(コンサートホール)が設置されている。そのほか敷地面積の大半を占める広場や庭園は、観光客が写真を撮ったり、地元の若者がダンスの練習をしていたりと、多くの人の憩いの場となっている。
本堂の長い階段を登って後ろを振り返ると、キチンと手入れされた庭園とその奥に広がる広場、そして2つの芸術劇場の、整然とした美しい風景が望める。
入り口正面には巨大な蔣介石のブロンズ像があり、その像の上部には彼の政治の基本理念であった「倫理・民主・科学」の文字が刻まれている。日中毎正時にはブロンズ像の両脇にいる衛兵の交代式が行われ、ここを訪れる観光客の目玉になっている。
紀念堂の1階は資料館になっており、蔣介石の生涯や業績と当時の世界情勢、日本との関わりなどを知ることができる。生前に乗用していたキャデラック2台も展示されており、クルマ好きの友人は興味深そうに見入っていた。
こう描写していても分かる通り、要は当時の国民党政権が作ったプロパガンダ施設である。日本ではひとりの政治家に対してこれほど力の入った国家施設を作ることは無いので、自分の目には少し異様に映った。
国共内戦やその後の2つの中国問題など、複雑な生い立ちを持ち現在も揺れ続ける台湾において、国民をひとつに束ねるために蔣介石を神格化すべくこのような施設が作られたんだろうと考えると、国家観の違いも感じ取れてとても興味深い。
なお1987年の戒厳令の解除後は民主化が進み、それまでの国民党一党独裁時代の圧政による数々の人権侵害が明るみになってくると、蔣介石に対する個人崇拝を排除しようとする動きが左派の民進党を中心に広がりを見せた。民進党政権下で中正紀念堂は一時的に「台湾民主紀念館」という名称に変更されたこともあった。
そういえば、台北の街中には至るところに選挙ポスターや候補者が描かれた大きな看板があったけど、調べてみると台湾では統一地方選の選挙戦真っ最中だった。旅行の途中で有力候補者と思しき人とエンカウントすることもあって、せっかくなら握手させてもらおうかとも思ったけど、全く知らない人だったのでやめておいた。
日本へ帰ってから選挙結果を見ると、既知の通り蔡英文総統率いる政権与党の民進党が大敗を喫した。
今まではそれほど気に留めていなかった海外の選挙のニュースも、実際に訪れた場所だとより興味を持って受け止められるようになる。海外を旅行する、というのは世界を見る自分の目の解像度を格段に上げる効果もあるんだなと実感できた。
さて、そろそろ日も落ちてくる頃だが、僕は先ほどから天候が非常に気になっていた。事前の天気予報だと今日は雨だったのだが、来てみると重い雲が立ち込めているもののギリギリ雨は降らずにいる。友人は道中「雨が降らないのはオレが晴れ男であるお陰だ」と頻りに言ってきてうるさかったのだが、この後行く予定の超高層ビル台北101の展望台では、当たり前だが展望台のまわりに雲がかかってしまうと何も見えなくなってしまうので、もう少し友人には頑張ってもらわなければならない。
中正紀念堂駅から捷運の淡水信義線に乗り、台北101/世貿駅で下車して地上に出ると、台北のランドマーク、台北101の最上階部分が少し雲で隠れているのが見える。
どうしようかと思ったが、せっかくここまで来たので一か八か賭けて登ってみることにした。入場料は600NT$で、台湾の物価の相場感や、龍山寺や中正紀念堂が無料だったのと比べると割高に感じてしまう。東京でスカイツリーに登るのとあまり変わらないくらいだ。
展望台へは東芝製のエレベーターで、地上382mの高さまで僅か39秒で到達する。最高時速60.6kmは完成当時世界最速だった。
あっという間に展望台に着いて辺りを見回してみると、時折雲が邪魔してくるが辛うじて外の景色が見える。少し待っていると日が沈んで、雲の隙間から、あるいは雲を挟んでぼんやりと、台北市街の夜景を見ることができた。昼景でも夜景でもそうだけど、展望台からの景色というのは、まるで地図を見ているかのように街を俯瞰することができるのでとても楽しい。市域の広さはさすがアジア有数の世界都市である。
展望台の内部は吹き抜けになっていて、巨大なウィンドダンパー(制振装置)を見ることができる。直径5.5m・重さ660トンの巨大な球体が、ビルが風圧を受けた時に振り子のように動くことで揺れを40%吸収することができるという。このビルはどうやらウィンドダンパーを強く推したいようで、各国語でウィンドダンパーの解説(映像資料もあり)があったり、マスコットキャラクターもウィンドダンパーの球体をモデルに作られていたりする(正直あまりかわいくはないが)。
すっかり日も落ち、お腹も減ってきたので、いよいよお待ちかねの夜市へ向かう。台北101の地下には大きなフードコートもあるけど、せっかく台湾に来たからには夜市で食べるのが醍醐味である。
空港で出迎えてくれたガイドのおばあちゃんは「衛生管理が杜撰だから日本人が夜市で食べるのはやめといたほうがいい」みたいなことを言っていたけど、生ものをなるべく避けるようにすればそれほど神経質にならなくてもいい気はする。
ということで、 捷運の淡水信義線に乗って、台北市街の北部にある士林(シーリン)夜市へ。庶民の台所として賑わう台北最大の夜市だ。アクセスは士林駅よりも一つ手前の剣潭(ジェンタン)駅で下車する方が近い。
夜市は何と言っても雰囲気が良い。毎晩お祭りでもやっているんじゃないかというくらい活気があって、歩いているだけでも気分が高揚してくる。
台湾の人たちは基本的に商魂逞しくて、日本人相手でも片言の日本語でどんどん喋りかけてくる。「ニセモノ要リマセンカ」と堂々と偽ブランドを売るキャッチの人もいた。
夜市には、小吃(シャオチー)と呼ばれる一品料理の屋台のほか、ゲームコーナーやマッサージ屋・占い・お土産・服・雑貨など何でもある。歩いているとたまにドブ川のにおいがするが、大抵はその近くに臭豆腐の屋台がある。
がっつり晩御飯を食べたかった僕たちは、士林市場の地下にある、美食区と呼ばれる飲食店の集うエリアへ向かった。特にこのフロアのお店はどこもキャッチの引力が強いので、5m進むごとに「全部見てから決めるね」と言いながらフロア全体を見て回り、特に気になった店に入って腰を下ろした。
メニューを見せてもらい、小籠包とチャーハンに妙め物2種類、臭豆腐を注文する。臭豆腐に関しては前回高雄の夜市で食べた時にあまりいい思い出が無いので友人に任せたら、食べてみたいと言うので仕方無く注文した。
どの料理も味付けは日本人好みで(臭豆腐を除く)、少し脂っこく塩気が多めでビールがよく進む。
仕方なく注文したとは言いつつも、いざ目の前に臭豆腐があると怖いもの見たさなのかどうにも気になってしまう。
少しにおいを嗅いでみたら、あれ…そんなに臭くない…? これはもしかしていけるのでは…?
急に変な自信が湧いてきたので、意を決してひとつ口の中に放り込んでみたら、ちゃんとドブの味がした。一瞬であの高雄の夜がフラッシュバックした。味覚が記憶を呼び起こす経験は誰もが持っているだろうが、これほどまで鮮明に脳裏に浮かぶのは初めてだ。
あの夜はあまりの強烈さに半泣きになりながら食べていた。当時高校出たてだった純朴な青年に、臭豆腐の刺激は強過ぎた。口に入れたは良いが、臭くて噛めたものでもなかったし、戻すのも憚られるしで、結局臭豆腐2つを30分以上も掛けて何とか食べ切った。その時はひとり旅だったから、この苦しみを誰にも分かち合えない、リアクションで笑ってもらえる訳でもない、というのも存外辛かった。
その当時と比べたら僕も少しは成長したし、それに今回の臭豆腐はそこまで酷くはない。何よりひとりじゃない。大丈夫。気を強く持って。
しかし咀嚼しているうちに色々な記憶や感情が入り混じって脳がバグったのか、急に笑いが止まらなくなってしまい、目の前にいる友人と隣のテーブルの地元客から不審者を見るような目で凝視されてしまった。
一応臭豆腐の名誉の為に言っておくと、豆腐の上に掛かっているタレと付け合わせの野菜は美味しいし、豆腐自体の旨味も確かにある。でも結局全部ドブの風味が持っていってしまう。
一方の友人は臭豆腐を臭がりつつも、旨いと言いながら完食してしまった。大したヤツである。もしかして自分の舌がおかしいのかなと若干不安に陥ったのだけど、向かいに座っていた50代くらいの日本人客が、余った臭豆腐をお裾分けする体で隣の女子大生客に押し付けていたので(その女子大生もひと口食べてギブアップしていた)、どうやら友人の方が珍しいタイプのようである。
こうして強烈な、そして楽しい夜は更けていった。帰りがけに台北駅に寄って明日使う列車の切符を購入してから、ホテルへ戻った。
《2日目》気まぐれ日帰り台中編
2日目。8時前に起床。少し寝坊してしまい、急いで朝食を済ませる。9時前に台北駅を出る列車に乗らなければならないからだ。
今日は台湾中部の都市、台中へ向かう。
昨日は『台北四大外国人観光地』と言われるうちの3つ(龍山寺・中正紀念堂・台北101)を制覇するというミーハーを極めた行程だったが、今日は「高鐵に乗りたい」という友人の要望のもと、列車に乗るのに丁度良い距離だから、といういい加減な理由で台中へ行くことを決めた。それも行きの飛行機の中で旅程を組んだので、台中に何があるのかもよく分かっていないままである。
台中は、台北・高雄に次ぐ台湾第3の規模を持つ大都市だが、こと観光に関しては比較的マイナーな地域なのかガイドブックではかなり扱いが小さい。持参したガイドブックでは台北エリアに128ページも割かれていたが、台中エリアはたったの見開き3ページしかなかった。
それでも行ったことのない場所に行くというのはワクワクする。久しぶりに台鐵の列車に乗る高揚感も入り混じりつつ、台北駅の在来線ホームで列車を待っていた。
そこへやってきたのは、台北8時59分発の自強号(日本の特急に相当)で、E1000型という前後に機関車が付いたプッシュプル方式の列車である。台鐵では最も一般的な特急車両ではあるが、南アフリカのUCW社製の機関車に、韓国の現代ロテム製の客車を挟み込むという独特の編成を組んでいる。
ちなみに列車名の「自強」とは、中華民国政府が国際連合を離脱した際のスローガンである「莊敬自強 處變不驚(恭しく自らを強め、状況の変化に驚くことなかれ)」に由来していて、ここでも時の政権のプロパガンダを感じることができる。
客室には2+2の4列並びの座席が展開されている。一等車やグリーン車の無いモノクラスの編成である。車両自体は少し年季が入っていて、車内は日本の国鉄特急のような雰囲気だ。
台中駅には11時16分に着くので、2時間17分の道のり。料金は運賃・座席指定込みで375NT$。
西部幹線(縦貫線)の途上にある台北と台中の間にはほぼ1時間に1本程度自強号が運転されており、乗車した列車はかなりの乗車率だった。併走する高鐵が開業してからもう10年以上経つが、在来線の特急も元気なのはどこかの島国と違って大変喜ばしいことである。おい、聞いているかお前のことだぞJR。
正確に言えば台鐵は国有鉄道で高鐵はBOT方式(将来的に公営に移管予定)の民営なので、経営母体の違いから競合関係にあるのだが、料金が異なる(台北−高鐵台中の指定席料金は700NT$)ので上手く共存できているようである。
自強号は途中、中小都市の駅に細かく停まりつつ、ほぼ時刻通りに台中駅に到着した。
台中駅は2016年に周辺の駅と共に高架化されていて、駅舎もホームも線路も真新しい。現在もホームの増設工事中で、その所為なのかペデストリアンデッキからは建築溶剤のような鼻を突く異臭がする。
日本統治時代に造られた地上駅時代の旧駅舎も残されており、周りのモニュメントと共にインスタスポットと化している。
駅近くのショッピングモールにあるマクドナルドで少し早めのお昼を済ませて、いざ台中散策へ。
まずは駅から徒歩5分ほどのところにある、宮原眼科へ向かった。
病院が観光スポット?と思ったが、日本統治時代に日本人医師の宮原武熊が経営していた眼科の建物をリノベーションしていて、カフェレストランや洋菓子店、アイスクリームショップなどが入った複合施設になっている。
建物内に入ると、元病院だったとは思えない綺麗でお洒落な内装で、まるでヨーロッパの古い図書館のような佇まいである。2階はカフェレストランになっていて、そこでお茶だけしようかと思ったが、ひとり280NT$以上の注文が必要らしく、お茶以外の注文も必要になりそうなのでやめておいた。
台湾ではこのように、日本統治時代に造られた建造物が今も数多く残っていて、それらは今も現役で使われていたり、文化財として保存されていたり、宮原眼科のようにリノベーションして別の用途で再利用されたりしている。
日本統治時代をもちろん肯定はしないけれど、台湾の人たちがどういう理由であれ、その時代の建物を後世に残して大事に使おうとしてくれているのは、いち日本人として嬉しく思った。
もうひとつ、宮原眼科の近くに第四信用合作社という、これまた古い建物をリノベーションしたカフェがある。こちらは1966年に建てられた元銀行の建物で、宮原眼科と姉妹店舗になっている。飲み物のほかアイスクリームやワッフルなどのスイーツもあって、イートインスペースでゆっくり味わうことができる。
ここでタピオカミルクティーを注文してひと休み。日本でも大流行中だが、本場で飲むのはまた格別である。台湾のタピオカミルクティーに入っているタピオカは、日本で飲むものよりもモッチリしていて少し芯がある。
ひと息ついたら店を出て、タクシーを捕まえる。
異国の地でタクシーに乗るのは何かと勇気が要るが、ガイドブックにある行き先の写真を運転手さんに見せるとすぐに伝わった。メーターをちゃんと動かしているのも確認。
次の目的地は、市の中心部からクルマで20分のところにある彩虹眷村(レインボー・ビレッジ)というところで、近年台中で急速に注目が集まるようになったスポットである。
彩虹眷村までのタクシー料金は380NT$ほど。
途中運転手のおじさんがGoogleの翻訳アプリを駆使してこちらに「彩虹眷村のあとはどこへ行くの?」とか「今日はどこに泊まるの?」などプライベートな質問を投げかけてきた。翻訳アプリを使ってまで話したがる、というのは何かボッタクリとかの意図めいたものがあるのかと思って過剰に身構えながら質問に答えていたけど、そのうちおじさんがただ単純にお喋りしたいだけだと分かった。普通にいい人だった。疑ってごめんよ。
彩虹眷村は、香港出身で退役軍人の黄永阜さんが「退屈だったから」という理由で2008年頃から老朽化した自宅の壁をカラフルなペンキで塗り始め、それが新たなアートスポットとして認知されるようになった場所である。もともと付近のエリアは再開発地域に指定されていて黄さん宅も取り壊される予定だったが、いきさつを知った市民の嘆願によって取り壊しを免れ、それが更に話題を呼んで、今では年間200万人が訪れる台湾でも有数の観光名所となったのだ。
家の壁だけでなく、塀や地面や屋根に至るまでビビッドな色合いで目を引くが、動物や人間が柔らかいタッチで描かれていて、黄さんの優しい人柄が伝わってくる。ペイントされた場所によって描いた時期が異なるのか、作風が少しずつ変わってきているのも面白い。
プロポーズや結婚式をテーマに描かれているエリアもあって、そこで結婚写真を撮る台湾人カップルも多いのだという。
台湾で彩虹爺爺(レインボー爺ちゃん)として親しまれている黄さんは、当日は不在だったが、現在も彩虹眷村の自宅に住んでいるそうだ。
再びタクシーに乗って、台中の中心市街方面へ戻る。今度は女性の運転手で、行き先を告げると運転席に取り付けられたタブレットを操作して、Google Map に行き先を入れて発進した。こういうところは時代性を感じる。
それはそうと、さっきのおじさんもそうだったけど、台湾のタクシー運転手は基本的に運転が荒い。その中でもこのお姉さんは特に酷くて、こちらが特に急いで欲しいと言っているわけでもないのに下道で当然のように90km/hくらい出すし、走行中に後ろを向いて話し掛けてくるし、ウィンカー出さずに交差点を曲がったりもする。
更に、友人に言われて気づいたことなのだが、この運転手、シートベルトをしていない。
普通ならシートベルトを着用しないと警告音が鳴るはずだが、この運転手はシートベルトのバックル(ベルトの差し込み口)に、ベルトと繋がっていない別のタング(差し込む金属のヤツ)を差し込んで、シートベルトを実際は締めなくても警告音が鳴らないようにしていたのだ。
シートベルトをせずに事故を起こした時のダメージの大きさと、シートベルト着用による圧迫感を比べて、なぜシートベルトをしない方を選ぶのかは全く理解できないが、とにかく僕らの目的地までは無事に着くことを祈っていた。旅行前にケチって海外旅行保険に入っておかなかったことを半ば後悔していた。
何とか死なずに辿り着いたのは、台中市街の北部に位置する禅寺・寶覺寺(バオジュエスー)。
このお寺で特に有名なのは、高さ33mの金色の弥勒菩薩の大仏像。1964年に当時の住職が、平和な世の中を願って資金を集め、その後約15年の歳月をかけ造立した。
それにしても大きい。隣の建物と比較すると大きさが分かる。そして優しそうなお顔。西日が射して笑顔が輝いている。
弥勒菩薩像の内部は民俗文物館になっているようで、採光窓もあちこちにあるが、訪問時には内部へ立ち入ることは出来なかった。
木造の本殿は日本統治時代の寺廟建築の要素を残していて、その歴史ある本殿を保護するため、周囲を大型のコンクリート建造物で覆うという独特な構造になっている。
また境内には、戦前に台中周辺で亡くなった日本人1万4000人のお墓もあり、毎年慰霊祭も行われているそうだ。平和への願いを新たにすると共に、ここまで無事故で来られたことにも感謝して、寶覺寺を後にした。
ここからは徒歩で台中の街をそぞろ歩き。
寶覺寺の近くにあったスーパーで台湾バナナを購入し、それを食べながら、台中駅方面へ向かって歩く。
10分ほど行くと、儒教の開祖である孔子と、その先祖や弟子を祀った孔子廟がある。孔子廟はアジア各地に存在するが、ここ台中の孔子廟は台湾で最も大きなものとして知られる。宋代の建築様式で建てられていて、華やかな装飾が印象的である。孔子は教育者でもあったことから学問の神様としても有名で、学業成就を願って多くの人が参拝に来るそうだが、この日は平日の夕方とあってか人はまばらで、落ち着いた雰囲気の中見学できた。
孔子廟のすぐ隣には、莒光新城という高層アパートの団地があった。築30年ほどとみられ、土色の壁に、各家庭の窓は空き巣防止の格子が張られている。台湾にはこうした高層アパートは数多くあるが、いずれも移動の列車内やタクシーの中から見ていただけで、間近で見てみると殊更興味深いものである。
付近を見回していると、いくつかのアパート棟に囲まれた半閉鎖空間に中庭があるのが少しだけ見えた。何だかパンチラしているみたいな気持ちになったが、一体その中がどういう雰囲気なのかつい気になってしまって、失礼を承知で少しだけ覗かせてもらうことに。
四方を巨大な建物に取り囲まれた空間は太陽光を遮り、やや暗くて鬱蒼としているけれど、ちゃんと人の生活のにおいもしていて、妙に心を惹かれるものがある。中庭にある気休め程度の植木や花壇が周りの巨大なコンクリートの塊と対比を成していて、心の中の渡辺篤史が「ほぉ~」「いいですねぇ~」を連呼していた。
知らない街を歩いていると、ガイドブックには載っていない発見もある。
怪しまれる前に莒光新城を出て再び台中の街を歩く。だいぶ日も傾いてきて、授業を終えた学生や仕事終わりの人たちで街はにわかに活気づく。
市民の憩いの場として親しまれる台中公園を横切り、出発地点の台中駅に戻るころにはすっかり日も暮れて、辺りは暗くなっていた。
そろそろホテルのある台北へ戻らなければならない。帰りは高鐵の列車を予約したので、高鐵の台中駅まで移動する。高鐵の台中駅へは、台鐵の台中駅から縦貫線の区間車(普通列車)で4駅の新烏日駅で連絡している。
少し早めに到着して、ホームで先行列車を眺めていた。高鐵の車両は日本の新幹線の技術を基に作られていて、塗色や先頭形状の違いを除けば、そっくりそのまま新幹線700系である。先頭形状が変わったのは、ベースの700系の先頭形状に対して台湾側で不満の声があったからだそうだが、そのお陰か700系より幾分シュッとした顔つきになっている。
19時39分発の152列車に乗車し、一路台北へ。この列車は速達タイプで、台北までは途中板橋(バンチャオ)のみに停車する。最高時速300km、所要時間は50分で、行きの自強号の半分以下で到達する。やっぱり速いなあ。
台北駅に到着し、晩御飯を食べに行く。今晩は友人のリクエストで火鍋を食べることにした。
向かったのは、捷運の忠孝敦化駅から徒歩8分の満堂紅というお店で、700NT$(サービス料込み)で2時間の食べ放題とソフトドリンクの飲み放題、デザートにハーゲンダッツの食べ放題まで楽しめる。
ベースのスープを2種類から選べるので、ひとつは辛めのスープ、もうひとつはミルク味噌のスープを選んだ。僕は辛い食べ物や、刺激物全般が苦手なのだが、ものは試しと辛い方のスープに入れた具材を少しだけ食べてみることにした。口から火が出るほど辛くて、むせ返りそうになりながら飲み物を取りに行った。
一方の友人はというと、少し辛そうにはしているものの、「イケるイケる」とおいしそうに頬張っていた。昨日の臭豆腐といいこの火鍋といい、彼の舌は一体どうなっているのか、どうにも不思議である。
ともあれ2日目の行程を無事終了して、ホテルへ戻る。
ガイドブックでは見開き3ページの台中だったけど、実際に訪れてみると相当なボリュームのある都市だった。今回まわりきれなかった逢甲夜市を始め、日本でもお馴染みの春水堂の1号店や、国立の美術館や博物館など、まだまだ見所は多い(それも大概帰ってきてから「ここ行けば良かった!」と気づく)。
現在台中では捷運も建設中で、開業した頃にはまた街並みも変わってくるのだろうか。その頃になったらまた訪れてみたい。
《3日目》ローカル線で行く十分&九份編
3日目は、ローカル線の情緒がたっぷり味わえる十分(シーフェン)と、ノスタルジックな街並みで有名な山あいの街、九份(ジォウフェン)へ。
前日までの疲れからかまた朝寝坊をしてしまい、9時20分に起床。ホテルの朝食の時間が9時半までだったので食べ損ねてしまった。
この日も台北駅から列車に乗ってスタートする。
台北駅は言わずもがな台鐵最大のターミナル駅だが、地下に位置するホームは2面、ホームに面した線路も4線のみ。台湾西部を南北に縦断する縦貫線の途中駅であり、台北駅を始発・終着とする列車も確認した限りでは皆無で、ターミナルっぽさはあまり感じられない駅である。
そんな台北駅を10時35分に出発する区間車(普通列車)に乗車。車両は台鐵の最新鋭の通勤電車EMU800型(EMU=Electric Multiple Unit)で、流線形の前面形状はJR西日本の681系に似てスマートな印象である。
列車は台北駅を出ると、2駅先の南港駅までは地下区間を走り、南港駅と汐科駅の間で地上に出てからは台北郊外の住宅街を駆け抜けていく。朝のラッシュの時間帯を過ぎた車内はのんびりとした雰囲気で、僕らと同じように十分や九份へ向かう観光客も見受けられる。
車内の全てのドアには車掌用の開閉スイッチがあって、車掌さんがどの車両にいてもドアを開け閉めすることができる。
何駅か過ぎると市街地は途切れ途切れになって、基隆(キールン)河に沿って山あいをカーブしながら進んでいく。
台北から50分ほどで、瑞芳(ルイファン)駅に到着。ここで下車して、平渓線の列車に乗り換える。
平渓線は全長13kmの盲腸線で、もとは石炭運搬のために建設された鉄道である。目指す今日最初の目的地・十分は、この平渓線の途上にある小さな街である。
ウェブサイトによっては「平日は閑散としている」なんて表現もあったけど、瑞芳駅ではホーム上で多くの乗客が列車を待っていた(この日は水曜日)。
20分ほど待つと、平渓線の列車がやってきた。日中は基本的に1時間に1本の運行だが、この列車は多客対応のためか3両編成である。
車両はDR1000型(DRはDiesel Rail carの略)と呼ばれる気動車で、日本車輌で製造され台湾へ輸入された。そのためか車内もどことなく日本っぽさが漂うが、車内の中央部には中華料理屋の入口みたいな謎のΩ型の仕切りがある。
製造当初DR1000型は全車両がリクライニングシートを装備していたが、一部を除いてほとんどが写真のようにロングシートに改造されてしまった。リクライニングシート車両のある列車に当たったらかなりラッキーだ。
座席がほとんど埋まるくらいで列車は瑞芳駅を出発した。
ふた駅先の三貂嶺(サンディァオリン)駅までは、東部幹線の宜蘭(イーラン)線の線路を走る。ちなみに瑞芳と三貂嶺の間にある猴硐(ホウトン)駅周辺は、多くの猫が暮らし、猫好きの人々が集まる猫村として近年注目を浴びているスポットだ。十分・九份を含めこの辺りはかなり観光資源が豊富なエリアである。
三貂嶺駅からは平渓線の線路に入る。線形が悪いのか、幹線である宜蘭線を走っていた時よりもかなりスピードを落として、時速30km前後で左右に揺られながらゆっくりと走る。基隆河の渓谷を分け入るように進んでいき、車窓からは「台湾の保津峡」とも呼ばれる風光明媚な渓谷美が楽しめる。
下車駅の十分が近づくと、先ほどよりももっとスピードを落として、十分老街と呼ばれる商店街の軒先擦れ擦れを牛みたいな速度で通過する。外を見てみると、多くの観光客がスマートフォンやカメラをこちらへ向けている。平渓線のハイライト区間である。
列車はゆっくりと十分駅に滑り込んだ。
僕たちを含めほとんどの乗客はここで降りる。この駅で列車の行き違いを行うので、駅構内は2本の列車の降車客と乗車客が入り乱れてごった返している。
何とか駅の外に出ると、線路沿いの両脇には飲食店や土産物店が所狭しと立ち並んでいて、たいへんな賑わいようである。
この駅の付近では、列車が来ない時間帯は自由に線路内に立ち入ることができる。線路沿いの看板に繁体字の中国語で明らかに「線路立ち入り禁止」みたいなことが書いてあったが、安全管理の為の職員さんもいるので気にせず入って良い。ここでなら、線路に立ち入って撮った写真をブログにアップしても炎上して書類送検される恐れは無いので、安心して楽しめる。
またこの辺りは、願い事を書いたランタン(天燈)を飛ばす天燈上げの有名スポットで、多くの人が願い事を書いたランタンを飛ばしている。
「お金持ちになりたい」「健康第一で」「童貞を卒業したい」など、様々な願い事が様々な言語で書かれたランタンが空へ浮かんでいっては小さくなり、やがて消えていく。
果たして願いは叶うんだろうか…そもそもランタンって落ちた後ちゃんと土に還るのかな?などと呑気に考えていると、
「ピイィィィィイッッッ!!!!!」
安全管理の職員さんたちが鳴らす大きな笛の音が聞こえる。駅の方を見ると、瑞芳駅方面へ向かう上り列車がこちらへ向かってやってくる。
慌てて線路から退避して、通過する列車を至近で眺める。けたたましいディーゼルエンジンの音を響かせながら、ゆっくりと列車は通過していった。
これはいいな、と興奮気味に友人と頷き合った。
また40分後くらいに来る逆方向の列車は順光になるので、その列車をカメラに収めようと決めた。待ち時間でお昼を食べるため、近くの食堂に入った。
列車で頭がいっぱいだったため、何という名前の料理を頼んだのか忘れてしまったけど、台湾滞在中に食べた料理で1、2を争うくらいに美味しかった。クセが全く無く、味付けの濃さも丁度良くて、同じプレートをそのままもう一皿食べられるくらいだった。多分朝食抜いた所為もあるだろうけど。
しっかりお腹を満たして、再び老街へ出た。
列車をどこから撮るのがいいか、他の人と被らずに撮れるか素人なりに考え、「ここにしよう」と決めて、列車が来るのを待つ。さあいつでもかかって来い。
やがてまた合図の笛が鳴り、奥からゆっくりゆっくり列車が向かってきた。
…うーん、どうだろうか。
何枚か手前のお姉さんと被ったけど、カメラを向ける様子も写せたのはこれはこれでいい感じ。
でももう少し引いて老街とほかの観光客も入れた方が良かったかな…まあいいか。
ここからは少しハイキング。台湾のナイアガラと呼ばれる十分瀑布(滝)まで歩く。
老街を抜けて対面通行の道路を少し歩き、橋を2つ渡って渓谷沿いの遊歩道を進み、もうひとつ吊り橋を渡ると所要25分ほどで十分瀑布に到着する。
幅約40メートル、落差約20メートルを誇る十分瀑布は、規模では本家ナイアガラに及ばずながら、半円形の岩盤を伝いカーテン型に流れ落ちる豪快な水流が壮麗な景趣を生み出している。
以前は業者が管理する私有地で有料だったそうだが、地元自治体が土地を取得して周辺の遊歩道や観光施設を整備し、無料で開放されるようになった。新北市万歳。
この付近で鉄道ファンとして見逃せないのは、十分瀑布から少し戻ったところにある吊り橋「觀瀑吊橋」と平渓線の列車を一緒に収められる撮影ポイント。
平渓線は本数が少なく、後の行程を考慮するとあまり時間的余裕が無いのだけど、ここで撮らなきゃ男が廃りますね。ということで、下り列車を撮影したら即座に十分駅に戻って、行き違いの上り列車に乗って瑞芳駅に戻るという強攻策を打つことにした。列車が時間通りに来るなら、上り列車の出発時間までは僅かに13分。果たしていけるだろうか。
撮影ポイントでスタンバイしていると…
来た…!
はい、いい感じ!!さあ走れ!!!!
階段を駆け上がり、対面通行の道路に出るところまで来ると、その気合いとは裏腹に、既にカラダはゼエゼエ言っている。完全に日頃の運動不足が祟っている。これはちょっとキツいかもな…十分駅の近くは人混みで走れなさそうだし。
そこへ目を付けてやって来るのは、さすがは商い上手な台湾のタクシー運転手である。急ぐ僕たちの横にタクシーを付け「乗っていかないのかい?」と。
ええ乗りますとも。ちょっと悔しい気分だけど。
こちらの急いでいる様子を察してか、この運転手も御多分に洩れず猛スピードで駅前まで連れていってくれた。お陰で無事インタイムで十分駅のホームに辿り着き、目標の列車に乗車することができた。めでたしめでたし。
再び平渓線の列車に揺られて瑞芳駅まで戻る。
次の目的地九份へは、この瑞芳駅が最寄り駅である。九份の中心街へは、この駅からバスまたはタクシーでの移動となる。運賃は、バスなら九份老街まで15NT$、タクシーだと公定価格で205NT$なので、僕たちは迷わずバスを選択。バス停は駅前から200mほど離れた場所にある。
バスで山道を20 分ほど揺られ、九份老街バス停に到着した。
九份のメインストリートは2つ。傾斜面に開けた街を等高線に沿ってほぼ水平に行く基山街と、傾斜面を石段で登っていく豎崎路(スウチールゥ)がある。基山街は主に土産物店や軽食店がひしめき合っている方で、豎崎路は茶藝館が多くガイドブックに写真がよく載っている方である。
九份老街のバス停のすぐ近くに、基山街の入り口がある。ここから九分散策はスタート。
台湾でイの一番に名前が挙がる観光地とあって、到着時も観光客でごった返していた。到着したのが午後4時前で、夕暮れ時に向けてまだまだ人が増える時間帯である。
今でこそこれだけ観光客が訪れるようになった九份だが、数十年前は人も少なく、閑散とした街だったという。
19世紀末から 20 世紀前半にかけて、この近辺には金鉱山があった。ゴールドラッシュに湧いた九份には何万もの人が移り住み、商店や酒場や学校などが立ち並んで繁栄を謳歌した。その頃に整備された路地や石段などの街並みは今でも色濃く残っている。
しかし、70年代に入ると金鉱は閉山し、それに伴って急速に街は衰退。一旦は人々から忘れ去られてしまう。
この街に2度目の春が来るきっかけとなったのは、1989年、ニ・ニ八事件を取り上げた台湾の大ヒット映画『悲情城市』の舞台に九份が選ばれたことだった。映画を通して、時が止まってしまったかのようなノスタルジックな街並みに注目が集まり、多くの人々が九份を訪れるようになって観光地化が進んだ。
石畳の小さな街路に並び立つ年季の入った建物群と、夜闇に包まれた街を優しく照らす赤提灯の印象的な風景は、ジブリ映画『千と千尋の神隠し』の世界観のようだと日本でも話題となり(公式にはモデルになっていないとされる)、日本人客も多く訪れるようになった。
そんな歴史ある九分老街を一通り歩いて、少し人混みにも疲れてきたところで、豎崎路の中心にある阿妹茶酒館でお茶をいただくことにした。ガイドブックの表紙に載るような有名店だが、タイミング良く最上階のテラス席へ通してもらえた。
4種類のお茶請けとお茶のセットで300NT$。お茶請けは少し甘めだが、どれもお茶によく合う。何より情緒溢れる街並みの中で、山肌の少し涼しい風を感じながら、美味しい台湾烏龍茶とお茶請けで息をつけるというのは格別である。
ゴールドラッシュの栄華を誇った当時の九份の喧騒に思いを馳せて、まるでタイムスリップしたかのような気分に浸っていた。当時この地で働いていた人たちは何を考え、何を糧に生きていたのだろうか。
まわりを見渡しているとみんなたくさん写真を撮っていて、ああ今自分はこの街の美しい風景の一部に組み込まれているんだなと考えると、ここを訪れることができて本当に良かったと思えた。
5時を過ぎると、空もだんだんと暗くなってきたので、お店を後にして街へ降りる。ブルーアワーに差し掛かった街の赤提灯に火が灯って、より一層趣の溢れる風景が広がっている。
そしてそれに合わせるかのように、さっきより混雑度合いが2段階くらい上がっている。
ここまで混んでいると正直情緒を感じる余裕はあまり無いのだが、友人とはぐれないように、人混みに揉まれながらも各々で適宜写真を撮った。景色を目にも焼き付けながら、豎崎路の石段を下っていく。
下っていった先には九份バス停があり、そこからバスに乗って瑞芳駅へ戻った。
考えてみたら、数ある中で台湾のナンバーワン観光地がこんな山あいの小さな街ならば、そもそも混雑しないはずが無い。順位だけで言えば日本でいう京都みたいなものである。京都も特にハイシーズンは物凄く混雑するけど、それでも街は盆地にあるからそれなりに広くて、それに応じた宿泊のキャパシティもある。九份には大きなホテルの類は一切無く、あるのは民宿のみ。多くの観光客は日暮れ前に一斉にドンとやって来て、商店が閉まりだす7時半くらいになるとほとんどの客は台北へ戻っていく。麓の瑞芳へ向かう道路も基本的に一本だけである。
だから駅から九份までの行き帰りの道は相当な渋滞を覚悟していたのだが、行き帰りどちらとも渋滞に巻き込まれずにスルッとこられたので、それが僕には不思議に感じられた。
今回は時間の都合で訪問できなかったが、九份のもう少し奥に金瓜石という街があって、九份ほど騒がしくなく、尚且つ金鉱採掘が行われていた当時の様子を知ることができる博物館もある。次に訪れた時には、ぜひ九份の民宿に泊まって、併せて金瓜石も散策しようと心に誓った。
瑞芳駅から列車で台北市内に戻る。歩き続けた疲労からか列車内では爆睡。
友人に起こしてもらって、台北駅よりひとつ手前の松山駅で下車する。台湾最後の夜はやっぱり夜市へ、ということで松山駅のすぐそばにある饒河街(ラオホージエ)観光夜市へやってきた。
松山慈祐宮という寺廟の門前に発展した歴史ある夜市で、台北では士林夜市に次ぐ規模を持つ。約600mの通りには、道路の真ん中と両端に屋台が並んでいて、士林夜市同様たくさんの人出で賑わっている。
まずは夜市の定番屋台グルメ、胡椒餅を食べることに。西の端のゲートの近くにある屋台で、人気店なのか長い行列ができている。胡椒餅は、豚肉とネギを混ぜて捏ねた餡を、小麦粉の生地で包んで専用の窯で焼き上げる小咆である。並びながらお店の人が作っている工程をじっくり眺めることができた。作業は手早くてソツがなく、店員さんというよりはむしろ職人さんのようだ。
食べてみると、「餅」という名前とは裏腹に、外の生地はパイに近いようなサクサク感があり、中の餡は柔らかく噛むと肉汁が溢れ出てくる。ネギの食感と胡椒のピリッとした辛さが良いアクセントになっている。もちろん焼きたてなので熱々である。旨くない筈がない。
胡椒餅を食べた後は、友人が食べたがっていた鶏肉飯の屋台があるか探してウロウロしていたが、見つけることはできず。代わりに炭水化物をイートインで補給できるお店に入って、僕はパクチーの入った焼きビーフンを、友人は魯肉飯(ルーローファン)をいただいた。
鶏肉飯はまた明日リベンジ。お腹を満たしたので、夜市を後にして西門のホテルへ戻った。
これは地図を見て気づいた話で、饒河街観光夜市のすぐ裏手を大きな川が流れているのだけれど、それは今日散々お世話になった基隆河だった。基隆河を列車でずっと遡って十分まで行って、また基隆河に沿って台北まで戻ってきた。十分瀑布で見た水の流れが、この夜市のすぐ裏まで繋がっている。
さらに、かつては砂金採集の場として有名な川でもあり、それが契機となって上流の九分の金鉱の発見にも至ったそうである。
そんな悠久の大自然と歴史のロマンに溢れる基隆河尽くしの1日だった。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。「常に同じものはこの世にない」と説いた鴨長明のように、明日の最終日も一瞬一瞬を余すところなく楽しみたい。
《4日目》故宮とプチ登山編
さあいよいよ台湾旅行も最終日。今日は「台北外国人観光地四天王」の最後の砦、故宮博物院を攻略して、ついでに台北市街を見下ろせる象山(シャンシャン)登山へ行く。
ツアー会社の空港への送迎の集合時刻がホテルに3時過ぎなので、最終日とはいえそこそこ余裕がある。
起床して朝食を食べたら、荷物をまとめてチェックアウトし、大きな荷物はホテルのフロントに預けていざ出発。
今日の目玉、國立故宮博物院へは、台北捷運の淡水信義線・士林駅からバスでのアクセスになる。駅の北側の出口を出て、捷運の線路と交差する中正路にある停留所から、故宮へ向かうバスが出ている(行先表示に「故宮」と書いてある)。15分ほどの乗車で故宮博物院に到着する。
世界四大美術館のひとつに数えられる故宮博物院は、収蔵品数60万点を誇る台湾最大の博物館である。国共内戦で形成が不利になった蒋介石率いる国民党が台湾に拠点を移す際に、中国大陸各地に分散して保管していた文物のうち第一級品ばかりをゴッソリ台湾へ移動させた。そのため中国歴代王朝に関連した文物を中心に数々の貴重な名品・珍品を鑑賞できる。現在の建物は1965年に建設されたものである。
入館料は350NT$。併せて150NT$で日本語の音声ガイドを借りると、より展示品に対する理解を深めることができる。手持ちの荷物はロッカーに預ける決まりになっているのだが、僕はその際一緒にカメラを預けてしまい(フラッシュを焚かなければ館内撮影OK)、館内や収蔵品は撮り損ねてしまった。無念。
収蔵品の中でも有名な、豚の角煮のような姿の天然石『肉形石』や、現代では製作不可能といわれる象牙細工『雕象牙透花雲龍紋套球』などの秘宝を間近で観察できたが、最も有名で故宮のシンボルとも言うべき『翠玉白菜(清の光緒帝妃の嫁入り道具の翡翠の彫り物)』は、台中フローラ世界博覧会(台湾花博)に2019年春まで貸し出し中とのことで、残念ながら見ることができなかった。四天王攻略の最後の最後に、ポケモンでいうところのワタルのカイリューにやられてしまったような気分で、特に初来台の友人はひどく残念がっていた。
やや不完全燃焼気味に故宮を後にして、お昼御飯を食べに行く。昨日お店を見つけられなかった鶏肉飯のリベンジを果たすために、捷運を乗り継いで松江南京駅から徒歩6分のところにある「梁記嘉義鶏肉飯」というお店へとやってきた。
1975年創業から人気のお店とあって、昼時の店内はかなり混雑している。オーダーはセルフサービスになっていて、予め食べたいメニューを選んでから席に座ると、本当に息つく間もなく料理が運ばれてきた。僕にも飲食バイトの経験があるけど、厨房の回転が恐ろしく速い。
看板メニューの鶏肉飯は、茹で鳥に鶏油と出汁のタレが染み込んださっぱりとした味わいの一品で、何度でも食べたくなるほどの美味しさである。おかわりできるか聞いてみようと思ったが、繁忙時で店員の殺伐とした雰囲気に尻込みして聞くのを諦めてしまった。このことはブログを書いている今でもちょっと後悔している。併せて頼んだスープと、卵とエビの炒め物も文句無しに美味。台湾料理特有の八角や五香粉系の香辛料が得意ではない方にも自信をもっておすすめできるお店である。
美味しい鶏肉飯に満足した後は、腹ごなしにプチトレッキングへ。捷運の淡水信義線の終点、象山駅から、登山道の入り口までは徒歩10分。そこから展望台までは20〜30分くらいで登ることができるが、登山道はほぼずっと階段なのでペースを間違えると膝にダメージを食らう。
初日に台北101から見た台北市街も良かったけど、当然ながら台北101から台北101自身を含めた眺望は望めないので、「これぞ台北」の景色を目に焼き付けたいならオススメのスポットである。
ただせっかくなら晴れて欲しかったなぁ。
無事自由行動の全行程を終えて、空港へ送迎してもらうためにホテルに戻る。集合時刻は午後3時5分なのだが、帰りの航空便の出航時刻は午後6時25分で、まだ時間にかなり余裕がある。松山空港はホテル最寄りの西門駅から捷運で20分もあれば着いてしまうので別に送迎の必要性を感じないのだが、送迎の途中で免税品専門の土産物店への立ち寄りを強制されるため不本意ながらこの時間の集合となった。恐らくツアー会社が客を連れて行く代わりに免税店からバックマージンを貰っているのだろう。
免税店に行く車内では、行きの時とは別の現地ガイドのおばちゃんが、中国語訛りの日本語で延々とおすすめ免税品のマシンガンセールストークをしていた。初めは話半分に車窓に映る台北市街を眺めていたけど、存外におばちゃんの話の独特な言い回しが面白くて、次第に聞き入るようになってしまった。
免税店に着いて車を降りると、免税カードを渡され、地下にある免税店のフロアへ通される。こういうのは初めての経験だったので、怖いお兄さんがいないか若干身構えていたけど、そんなことは無く、店内は明るく広々としていた。
品揃えは食品と宝石類・化粧品が中心で、1000万円以上する成金趣味っぽいサンゴの置物とか、効果の薄そうな健康食品なども置いてあった。友人と一緒に食品コーナーをぐるぐるしていたけど、夜市などで見かけた時の価格よりも割高で、あまり購買意欲をそそられない。それでもガイドのおばちゃんの購買圧力に押し負け、とりあえず日本に帰っておつまみに出来そうな台湾産メンマを一袋購入した。
30分ほどのお買い物タイムを経て再びクルマへ乗り、松山空港へ。台湾のフラッグシップ、チャイナエアライン(中華航空)CI222便・東京羽田行きで帰国の途に就いた。
3泊4日の台湾旅行、波乱の幕開けで一時はどうなることかと思ったが、台湾の美しい景色が、エネルギーに溢れた人々が、それに美味しい食べ物が、ネガティブな気持ちを洗いざらいどこかへ消し去ってくれた。
訪れた場所はどこも印象的だったけど、特に3日目に訪れた九份で見た景色は心に深く刻み込まれている。初めて訪れた場所だし、日本とは違うけど、どこか懐かしい感じもした。
台湾の人々はとても闊達で、時にはそのエネルギーに圧倒されそうになりながらも、根はとても優しくて親切で、楽しそうに生きてる人が多いように感じられた。台湾にも色々な人がいるだろうから一元的にこうだと決めつける訳ではないが、台湾で暮らす人たちを見ていたり、働く人たちに接したりしていると、自分自身の生き方を考える上で少なからず刺激を与えてくれているような気がした。
台湾の料理はクセの強いものも多かったけど、この旅行中、日を跨いでいくうちにそれも自然と受け入れられるようになっていった。このブログを書いている今ではもはや臭豆腐のにおいや味すらも懐かしくなっている。
帰りの航空機の中では既に、次に台湾に来たときの具体的な行程について考え始めている自分がいた。基隆に台南・阿里山や、台鐵で台湾一周して台東に寄ったりとかも。まだまだ行ってみたいところはたくさんある。前回訪れた高雄とか、花蓮にもう一度行くのもいいなぁ。
ありがとう台湾、また会える日まで。
【4】今さら京阪プレミアムカー乗車記
京阪電車が、有料の座席指定車両「プレミアムカー」を導入してからもうすぐ1年が経とうとしている。
導入が決まった時は「すでに転換クロスシートの豪華な座席を備えてる京阪が有料の指定席なんて」とか「関西人は倹約家(忖度表現)が多いからわざわざ指定席にお金を払わない」とか「編成の1/8が指定席になったら着席チャンスが減る"う"う"う"」みたいな批判や嘆きも散見されたような気がする。
かく言う自分も、どちらかと言えばやや懐疑的な見方をしていたけれど、蓋を開けてみれば概ね好評で当初は昼間の時間帯でも満席の列車が続出していたようだ。
僕は関東在住なのでなかなか乗る機会が無かったけど、つい先日大阪に行った時に「そういえば…」とちらっとプレミアムカーのことが頭をよぎってしまい、気づいたら別に用も無いのに京都の出町柳までのプレミアムカー券を握りしめて淀屋橋の駅で列車を待っていた。
プレミアムカーの乗車レポートは巷に溢れているけど、僕もせっかく乗ったついでに乗車記を書くことにした。
気づいたらプレミアムカー券を持っていたのであまり詳しく覚えていないけど、確か駅の有人窓口で買った気がする。自動券売機やホームで購入することはできないが、席が余っていれば車内でも購入することができる。またクレジット払いでインターネットから購入も可能である(要会員登録)。
値段は400円か500円で、淀屋橋起点で見ると樟葉までは400円、中書島から先だと500円。走行距離や地域性を考えると「だいたいこんなもんかな」と思える値段ではないだろうか。
乗ったのは17時発の特急淀屋橋行き1700号。プレミアムカーを導入してから列車の識別のために時刻と順番を組み合わせた4桁の識別番号が付けられるようになった。
京阪特急は日中なら10分ヘッドで1時間に6本あるが、そのうち4本がプレミアムカーを連結した8000系で運行される(電光掲示板などでは2扉車と案内される)。
ホームで今か今かと待っていると、上品な赤と黄色の塗装にゴールドの帯を巻いた京阪電車の花形、8000系が滑り込んでくる。この列車の進行方向前から6両目、6号車がプレミアムカーである。一見しただけで他の車両とは塗装が違い、この車両が特別車両であることが分かる。
折り返しの準備を行って、いよいよ乗車開始。
車内に入ると、まず目に入るのは漆黒を基調にシックにまとめられたデッキで、プレミアムカー専属のアテンダントさんが丁寧に挨拶をしてくれる。
ガラスのパーテーションで仕切られた客室に入ると、カーペット敷きの床に1+2の3列並びの座席が展開されている。昨今はJRのグリーン車ですら2+2の4列並びが増えているので、関東人の自分はそれだけでテンションが上がる。1人掛けの座席なら隣の客の圧迫感を受けずに済むし、もちろん1列少ないので各座席の横幅や通路幅も広くなる。
座席自体はパッと見た感じだと、東武100系スペーシアや、ひと昔前のJR北海道の電車特急のuシートみたいに、ヘッドの両側の部分がかなり盛り上がる形になっていて、これなら座っている時に両側からの視線が遮られて多少プライベートが保たれる。
シートピッチ(座席の間隔)は1020mmで、新幹線の普通車座席(1040mm)と大差無い程度。この列車の追加料金無しで乗れるほかの一般車両の座席が920mmなので、それより100mm間隔が広い。
座ってみると、座面は固過ぎず柔らか過ぎず、背もたれはやや硬めに仕上げてある。ホールド感という意味では今ひとつだが、乗車時間が1時間未満なので気にならない程度である。もちろんリクライニング機構を備えており、角度は測っていないもののJRの特急の普通車と同程度くらいは倒れる。
レッグレストやフットレストは装備されていないが、こちらも乗車時間を考慮してのことだろうか。
地味にありがたいのは肘掛けが木製やプラスチック製ではなく、ややクッション性のあるレザー張りになっていることで、肘をずっと置いていても痛みを感じることは無い。
前の座席には大型のテーブルとマガジンラック、飲み物のホルダーに上着や袋などが掛けられる収納式のフックと、標準的な装備。画像には無いがインアーム式の小さなテーブルも備えつけられている。さらに全座席にコンセントがついており、登録が必要になるが無料のWi-Fiも利用できる。
「くつろぎの空間デザイン」と謳っている通り、車内は落ち着ける空間と高級感が両立していて、かなり細部までこだわって作り込まれていることが窺える。
ひとつ残念なのは、窓割りが一致していない座席があることだろう。この車両は一般車両からの改造車であり、基礎の骨組みは工期や費用面から弄れなかったようで、旧来の一般車両のシートピッチに合わせた窓枠のままである。そのためプレミアムカーの広いシートピッチでは必然的に窓割りの合わない座席が出てくる。
窓柱の位置は公式サイトや窓口にある座席表で確認できるので、気になる方は早めに予約した方がいいだろう。
また、車内は一般車両含めトイレは無く、僕のようにトイレの間隔がやたら短い方やプレミアムカーで酒盛りしようと考えている方は予めトイレに行った方が良い(ちなみに淀屋橋駅の改札内にトイレは無く、改札外にある)。
車外から見ると窓がブラックアウトされた部分があるのでてっきりそこがトイレかと思い込んでいたが、そうではなくトランクが置ける荷物スペースと車椅子スペース、あとはアテンダントさんの詰所になっていた。
列車は淀屋橋を定刻に発車し、京橋まで各駅に停まる。乗車率は淀屋橋発車時点では2割程度だったが、京阪最多の乗降客数を誇る京橋から多くの乗客が乗り込み、座席は9割方が埋まった。
大阪市内で最も乗降客が多い京橋と、京都市内で最も乗降客が多い丹波橋はいずれも中間駅なので、こうした駅からの乗客の着席ニーズに応えている点もプレミアムカーの成功要因のひとつに思える。
14分ほど走ると、菅義偉官房長官の誤読やひらパー兄さんでお馴染み枚方の中心駅枚方市に着く。
枚方市を出ると、右に左にカーブしながら淀川の東岸側を遡上して行く。樟葉駅付近で見える淀川の景色を楽しみたいなら2人掛けの座席がおすすめである。
ところでプレミアムカーは人的サービスの面でも質が高い。
僕が乗った列車には上品な感じの女性アテンダントさんが乗務していたが、乗り降りの際には乗客への挨拶を欠かさず、走行中も小まめに通路をまわり、ひとりひとりの座席に目を配らせていてとても好感が持てる。
写真を撮るためにブラインドを弄っている時も「お閉めしましょうか」と気さくに声をかけてくれた。
他にも、アテンダントさんはプレミアムカーのグッズを販売したり、京阪の情報誌を配ったり、希望すればブランケットも貸し出ししてくれる。
ただし、飲み物や軽食などの車内販売は行われていないので注意が必要である。
たまたま京阪の他の車両にアテンダント募集の広告があったが、要項を見ると、京阪の社員ではなくANAのグループ会社である"ANAビジネスソリューション"に委託されており、その会社で接客などの研修を受けた社員さんが業務に当たっているとのことだった。なるほど、SKYTRAXで6年連続五つ星のANAの客室乗務員仕込みのサービスとあれば、満足度が高くなる訳である。
列車は56分で終点の出町柳に着く。快適な車内で過ごしているとあっと言う間に感じる。
途中ネチネチと車内の事を書いたけど、料金・設備・サービスを総合勘案するとかなり満足度は高く、流石は京阪といったところ。500円払って乗る価値は充分にあると思う。
もっとも、これらは完全に個人の感想なので、気になった方は是非一度乗車していただきたい。なお上記の内容は全て2018年7月時点のものである。
JR西日本も京阪のプレミアムカーの成功を見て、新快速への有料座席指定車両の導入を検討しているらしく、関西にも有料特急とは別の形での着席サービスの波が徐々に来ているようだ。
もともと競争の激しい関西の鉄道各社がどのようなサービスを展開していくのか、この先も目が離せない。
【3】201系を追い求めて
201系を追い求めて、関西へ向かった。
前に友人と京都・滋賀へ出かけてから(ブログ前記事参照)10日もしないうちにまた関西の地を踏む。関西大好き。
本当は、その旅行の間にせっかくだから201系にお目にかかろうと思っていたのだけれど、201系が走っていると勝手に思い込んでいたJR奈良線には、実際には1本も走っていないというとても残念な勘違いをしていた。そこからわざわざ大阪まで行くのも同行の友人には忍びないのでその時は諦めてしまったが、東京へ帰ってからふつふつと”201系に会いたい欲”が出てきてしまった。
そもそも関西の201系にお目にかかること、というのは自分の頭の中にある「できるだけ早めにやっておきたいことリスト」の1番目か2番目あたりに常にあって、たまたまタイミングが合ったのが数日前、という感じである。
特に大阪環状線を走るオレンジバーミリオンの201系は、2018年度中に全ての車両が後継の323系に置き換わるという噂があり、既に編成数もかなり少なくなっているという話を聞いて、居ても立ってもいられなくなった。
大阪駅に意気揚々と降り立ち、端にある環状線のホームへ目をやると、丁度外回りの201系が入ってくるところだった。
急いでホームを移動して、写真を撮る間も無く乗り込んだ。
ドアが閉まるエアーの音がする。
そして独特の、しばしば蚊の鳴く音と形容されるチョッパ音を響かせながら、ゆっくりと動き始める。
…
僕は東京の中央線の沿線の街で育ってきた。
生まれるずっと前から中央線を走っている201系は、自分にとってまさに鉄道のイメージそのものだった。
まだ電車に乗ることが特別なイベントだった幼い頃、201系の座席に座れたら、靴を脱いで膝立ちになって外の景色を眺めた。
座れない時はドアの窓まで背伸びをした。
先頭車両に乗った時は、前面が覗ける小さな窓に背が届かなくて、父親に抱っこしてもらった。
その父親のカメラを借りて最初に撮ったのも中央線の201系だった。
マイカーを持たなかった我が家が、どこかへ旅行へ出かける時に必ず最初に乗るのも201系。
最初に漢字が読めるようになったのも、方向幕に書かれた行き先の「高尾」とか「東京」だった。
201系にはたくさんの思い出が詰まっている。
僕は中央線の201系が、デザイン的に優れているからとか、当時まだ真新しかった技術を用いて設計されたから好きというよりも、自分を形作る思い出やアイデンティティの一角に201系が組み込まれているから好き、と言った方が正確かもしれない。
201系が中央線から引退する頃は、自分が今こんなに201系がいないことを惜しんでいるとは考えていなかった。今目の前を走っている列車もいつかは無くなってしまうということは理解していたはずだけど、当時は学校も部活も忙しく、ちょうど鉄道に対する情熱が失われかけていた時でもあったため、乗り納めをしようとかたくさん写真を撮っておこうなどということはあまり考えていなかった。
何事も、いなくなってからありがたさというか、それらがあった日々が貴重であることに気づかされる。それを最初に実感したのが201系が中央線から消えた時かもしれない。
…
今乗っている環状線の201系は、2003年頃から体質改善工事が行われている。車内はきれいになって、戸袋窓は埋められ、車体側面も雨樋と外板が一体化されてすっきりした。
記憶の中の201系とは幾分異なるけど、車両の寿命を伸ばすためでもあるので仕方がない。むしろ古い車両を長く使ってくれて感謝の気持ちが強い。
そんな昔の思い出に浸っているうちに、この列車の終点の京橋に着く。この201系はそのまま車庫に入るようだ。
ここからは自力で201系を探さなければならない。
普段それほど熱心に列車を撮っていない僕は、運用情報に精通しているわけでもJRに勤める友達がいるわけでもないので、運と、ネットにある真偽の分からない情報と、ホームの電光掲示板にある4扉車を示す〇印が頼りである。
なかなかお目当ては来ないけど、それが宝探しをしているみたいでちょっぴり楽しい。
201系を見つけては乗り、降りたら駅で撮り、沿線で撮れる場所も回りながら、何度もシャッターを切る。
オレンジ色の201系はもう先が長くないようだけど、色にさえこだわらなければ、大和路線では221系と共にウグイス色の201系が主力として活躍している。おおさか東線ではほとんどの列車が同じくウグイス色の201系で運行されている。
本数が多いので、オレンジ色の201系よりもたくさん写真を撮った。
こちらはまだ置き換えの予定も無く、しばらくは201系の活躍を見ることができそうだ。
201系に会いに来たと言いながら、大阪には他にも誘惑が山ほどあるので、美味しいものを食べたり、温泉に入ったり、夜の街を歩いてみたりととても楽しい時間を過ごした。
大阪は大都市だけど、人と人との距離感が近い感じがして、その雰囲気を久々に肌で感じられたのも良かった。
たまたま乗っていた朝の満員電車で人が倒れてしまった時に(その人は結局無事だった様子)、そのまわりの人たちはお互いすぐに声を掛け合いながら、車掌さんに連絡して、倒れた人の介抱も躊躇なく行って、風通しを良くしようと窓も開けて、その一連の流れがスムーズでとても感心させられた。
少し遠巻きで見ていた自分は、もし同じようなことが目の前で起きた時、果たしてこの人たちのような対応ができるかと自問していた。 もっとまわりに優しくなれるようにしなきゃ。
もしかしたら自分の目でオレンジ色の201系を見られるのはこれが最後かもしれない。
残念ながら全行程を通してあまり天気には恵まれず曇りや雨の時間が長かったけど、ちゃんと201系の記録と乗り納めはできたので、今度はそれほど悔いは残らずに済むだろうと思う。
ただ、
やっぱり記憶の中にある中央線の201系が一番かっこいいかな。
追記:
旅程の途中から、西日本を中心に豪雨が続きましたが、幸い無事に帰路につくことができました。
この豪雨災害で犠牲になられた方々に心よりお悔やみ申し上げます。
被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。
時間が経つにつれ、被害の甚大さが明らかになり、以前訪れた地やゆかりのある地域も被災していると報道などで知り、本当に心が痛みます。
微力ですが、僕自身にできることを見つけたいと思います。
【2】古都と湖都をめぐる(後編)
初日はこちら
大津へ来てみて、この街の観光都市としてのポテンシャルがかなり高いことに気づく。
日本一でかい湖を活かした遊覧船やレイクアクティビティをはじめ、周辺には昨日訪れた比叡山延暦寺などの歴史に名を残す寺社仏閣も多く、さらには関西の奥座敷であるおごと温泉もある。
ただ関東圏で思ったより知名度が低い気がするのは、やっぱり京都、お主が隣にいるからなのでは……
などと思いながら、東横インで朝食を食べている京都・滋賀旅行2日目の朝である。
東横インに泊まったのは高校生の時以来で、ホテルを決める時に完全に値段で決めたので朝食にはほとんど期待をしていなかったけど、思いのほかちゃんとバランスの取れた食事を提供してくれるので大変ありがたい。
さらに道路側に面したカウンターの座席からは、道路のど真ん中を走る京津線の列車を間近に眺めることができるので、個人的には満足感の高いホテルだった。
今日は、石山坂本線に乗って、大津の街をめぐります。(CV:石丸謙二郎)
ホテルをチェックアウトしたら、びわ湖浜大津駅へ行き、「京阪電車 びわ湖チケット」を(700円)を購入して早速電車に乗り込む。
説明しよう!このチケットは石山坂本線(石坂線)と京津線の電車が乗り降り自由になるだけでなく、この後訪れる予定の施設を含む約40の施設で割引などの特典が付くので、大津めぐりには必須のアイテムなのである。
びわ湖浜大津駅からひと駅、そこから徒歩10分のところに三井寺はある。
春は関西で一番早く桜が開花する場所だそうだが、青々と葉の繁る今の時期も生命力に溢れとても美しい。
歴史的には延暦寺と対立して宗徒に何度か焼き討ちにされたり、豊臣秀吉の怒りに触れ「お前領地没収な」と言われて廃寺同然になったり(この時秀吉が三井寺にあった弥勒堂を移築したのものが、昨日訪れた延暦寺の釈迦堂である)と、こちらもかなりの苦難の歴史を辿っているが、現在はそんな雰囲気を感じさせない静かで落ち着いた佇まいである。
またこのお寺の梵鐘は、前述の延暦寺とのいざこざの際、比叡山の門徒だった武蔵坊弁慶が三井寺から奪った戦利品として延暦寺まで引き摺って持ち帰り、試しに鳴らしてみたら「イノー、イノー(当時の関西弁で帰りたいの意)」と鐘が響いたように聞こえたので、ブチ切れた弁慶が谷底に放り投げて捨ててしまった、というユニークなエピソードが付いている。
よくもまあそんな状況から元あった所まで戻ってきたなと思うのだが、その弁慶の怪力エピソードに因んで作られたお菓子が大津名物の三井寺力餅で、びわ湖浜大津駅の近くにお店があるのでぜひ食べてみて欲しい。
試しに1セット買って食べたが程よい甘さと意外な柔らかさでとても美味しかった。
ただ1セットでは弁慶のような力持ちにはなれなかったので、100セットくらい買うと梵鐘を引き摺りまわすような怪力を得られるかもしれない。
そんな与太話満載の三井寺を後にして、また石坂線に乗ったら、大津市街を縫うように抜けて終点の石山寺駅へ。
このお寺はとっっっても庭が美しい。
古くからの人工物と樹木や草花が見事に調和している。かの紫式部が源氏物語の着想を得たり、枕草子や更級日記にも石山寺が登場したりするなど文学と非常に縁深い場所であるが、その史実を裏付けるような美しさである。もし自分が平安貴族だったらこのお寺で確実に三首は詠んだだろう。
実は三井寺を出た頃には雨が降り始めていて、梅雨だから仕方ないやと思いつつも何となくテンションが下降気味だったのだが、石山寺はその雨すらも心地良く感じさせてくれるようだった。心の中に静かに感動が広がっていくのが実感できる空間だった。
京都も含めてこの辺は本当に重文だとか国宝クラスの文化財がゴロゴロ転がっていて、そりゃ日本を訪れる外国人観光客が関東より関西へ訪れたいと思うのも納得だよなぁ、と思う。
石山寺を出たら、さっきよりも雨が強くなってきた気がするけど、気にせず参りませう。
石山寺駅まで戻って、石坂線にひと駅乗ると、唐橋前駅に着く。そこから駅名の由来となっている瀬田の唐橋までは徒歩5分。
琵琶湖を渡る船は強風で遅れがちだから、遠回りでも橋渡ったほうが確実だよね、という後世まで通じるありがたい教えとして「急がば回れ」ということわざが生まれた地である。
それはそうと、雨でだいぶ靴ん中がぐしょぐしょになり、テンションが地の底に着きそうになってしまったので、雨宿り兼昼食として、滋賀のローカルチェーン店で有名な「ちゃんぽん亭総本家」の近江ちゃんぽんをいただくことに。
長崎のちゃんぽんとは、まずスープが違う。豚骨ではなく和風だしを使っていて、あっさり風。麺は太麺ではなく普通の中華麺を使用していて、具材も肉とたっぷりの野菜が基本。
シンプルな味だけど、食べ応えがあってとてもうまい。
半袖でこちらへ来たらことのほか寒く、雨に濡れて冷たくなった身体に染み渡る温かく優しい味だった。
あと接客してくれた研修中の新人さんの、まだぎこちなくも一生懸命な営業スマイルも印象的だった。
これは東京にも欲しい!と思ったら既に数店舗出店していたので、今度行ってみようかな。
美味しいもの食べてお腹も機嫌も回復したので、今回の旅行の最後の訪問地、近江神宮へ。
競技かるたの聖地と言われ、あの人気漫画「ちはやふる」の舞台となった神社である。
である、といま断定調で書いたけど、実際に足を運ぶまでそのことをつゆも思い出さずに、やたら映画のポスター貼ってあるな、と思っていたら映画のロケ地としてもバッチリ使われていた場所で、一応映画を観ていた僕は「ここかるた部が整列してた場所だ!」とか「松岡茉優が登ってきた階段だ!」と気づいてひとりはしゃいでいた。
思わぬところで聖地巡礼。帰ったらDVD借りて見返さなくては。
楽しい時間は過ぎるのがあっという間だったけど、ブログにするとかなり盛りだくさんな1泊3日だった。
そこから家に帰るまでの道のりは気分が沈みがちだけど、それを見越して帰京のための交通手段は新幹線。しかも生まれて初めての東海道新幹線のグリーン車である。
流石にのぞみの正規運賃でグリーン車に乗れるほど僕はブルジョワジーではないけど、「ぷらっとこだま」というJR東海が出しているこだま限定の旅行プランを使うことで、普通車は正規運賃よりもかなり割安に、しかもそれにプラス1500円(京都〜東京の場合)でグリーン車へアップグレードできる。
勿論こだまなので東京まで3時間半くらい掛かるから、時間が何より大事な方にはオススメできないけど、新幹線に乗ること自体が楽しいアトラクションの僕にとってはむしろ大歓迎。何てったってグリーン車ですもの。
京都駅の構内で、晩御飯用の駅弁を買い込み、ホームに登ってワクワクしながら待っていると、やって来たのは285km/hで走るカモノハシこと700系電車。JR西日本所属の車両である。
JR東海の700系は2019年度での引退が決まっているけど、JR西日本所属の700系の行方はどうなるんだろうか。気になるところである。
早速車内へ入ると感じるのは車内照明の暗さ。暖色系の明かりで完全に睡眠を誘発してきているとしか思えないが、各座席には読書灯があるので手元は明るくすることができる。
シートは写真だとかなり黒っぽく見えるが、実際は焦げ茶色で細かい模様も入っている。
何よりこのシートピッチである。堂々の1160mmで普通車両よりも10センチ以上も広い。この10センチがどれほどの価値を持つかは乗り物マニアなら理解してくれると思う。
リクライニングは人権!とばかりに思い切り背もたれを倒しても後ろの座席への圧迫感が少ない。
フットレストもちゃんと装備されているので足場も快適だが、戻す時に足元左側のレバーを押すとかなり勢い良く戻るので、前の座席の人がいる時には配慮が必要になるかも。
そんな快適なグリーン車で、寝るなんて勿体無さ過ぎると思って頑張って起きてはみたものの、新富士から新横浜までの記憶が無いので、どうやら力尽きてしまったらしい。
新幹線は何事もなく安全運転で東京駅まで辿り着き、友人と別れそれぞれ帰宅の途について、今回の旅行は終了。
旅行へ行くと、たくさん歩いたり動いたりハプニングも起きたりするから確かに疲れは溜まるんだけど、嫌な疲れじゃなくて心地良い疲労感だから、やっぱり知らない土地やまだ見ぬ景色を見に行くのが自分は好きなんだと思う。
次はどこへ行こうかな。
【1】古都と湖都をめぐる(前編)
京都と滋賀へ行ってきた。
京都の街は、修学旅行やプライベートな旅行で何度か訪れているので大方の有名どころは抑えてあるけど、街の中心部から離れた比叡山延暦寺や、いつもサービスエリアで休憩したり列車の窓から眺めたりするだけだったお隣の大津の街はなかなか行く機会がなく、今回はその辺りを中心にめぐってみることにした。
6月のある木曜日の夜に東京から夜行バスに乗り込み、翌金曜日の朝5時半、京都駅の八条口へ着く。夏至なのですでに日が昇っていて、暗いバスの中から出てくるととても眩しいけれど、自然と起床スイッチが入る。
早朝の京都駅はまだ人が少ない。
JR京都駅のホームへ出ると、懐かしい車両が止まっていた。関東では見られなくなってからもう10年以上が経つ103系だった。
こうして元気な姿が見られると嬉しい。205系の列車を2本見送って(205系も関東ではあまり見られなくなったけれど)、このウグイス色の列車に乗ることにした。
列車で2駅で稲荷駅に着く。
すぐ目の前に伏見稲荷の入口がある。
京都で拝観できる寺社仏閣は、だいたい8時や8時半オープンだけど、伏見稲荷は24時間出入り自由。なのでとりあえず夜行バスで京都へ着いたらお稲荷さん、という流れが出来上がっているのか、そこそこ人が多い。
有名な千本鳥居の前では少しだけ人溜まりができていて、海外から来たと思しき人たちが、鳥居をくぐる人が見えなくなった瞬間を狙って一斉にシャッターを切っていた。
僕もその流れに乗ってたくさん写真を撮った。
こういうことができるのもこの時間ならではと思う。
中学生の修学旅行の時に平等院へは訪れた記憶がある。その時は集団でのバス移動だったので、駅から平等院までの道のりは初めて歩く。
拝観開始時間までまだ余裕があったけれど、朝食の摂れそうなカフェや飲食店は空いていなかったので、途中にあったパン屋さんで朝食を買い込んで、宇治川の中州の公園で食べた。宇治らしく抹茶の入ったパンが多くてとてもおいしい。
拝観開始時間になり、拝観料を払って境内に入り、鳳凰堂を眺めると、記憶の中にある鳳凰堂よりもだいぶ色が鮮やかになっていた。聞けば数年前に屋根の葺き替えや柱の塗り直しの修理が行われたそうで、より往時の姿に近づいたという。確かにこの姿を当時の人たちが見たら、現世の極楽浄土だと思ったかもしれない。
鳳凰堂を拝むだけでも十分価値はあるけど、平等院にまつわる国宝を含む品々やCG再現された堂内映像が見られる鳳翔館も素晴らしかった。
展示内容もさることながら、特に気に入ったのは鳳翔館の建物。内外装含めとてもモダンで、寺院の中にいるとは思えないような空間だった。
有名な紫陽花は見頃の終盤を迎えていたが、多くの人出で賑わっていた。
驚いたのは庭園の広さで、なんと5000坪もあるらしい。その中に様々な色の紫陽花が1万株植えてあり、目を楽しませてくれる。紫陽花の花自体の美しさはもちろんのこと、青々とした葉や周辺の緑とのコントラストが、より一層花を美しく見せてくれる。
紫陽花だけではなく、ツツジやシャクナゲ、秋になると紅葉も綺麗らしく、四季折々の変化を楽しむことができる。また違う季節にも訪れてみたいと思える場所だった。
宇治駅もこれまたモダンなコンクリート打ちっぱなしの駅舎で、曲線が多用されているところも美しい。駅構造もユニークで、駅舎に入ると一旦奈良線の線路をくぐって、ふたたび登って行ったところに改札とホームがある。
ここからは京阪グループの会社に大変お世話になる。
駅員さんのいる窓口で3900円の 「世界遺産 比叡山延暦寺巡拝チケット」を購入してホームへ行く。
少々値は張るが、京阪電車全線とケーブルやロープウェイなどこまごまとした交通機関に1日乗り放題なうえ、延暦寺の拝観料まで含まれているのでそこそこお得にまわることができる。
ホームには4両編成のまだ新しい車両が待っていた。
京阪間の鉄道会社を比べるときに「速さのJR・料金の阪急電車・サービスの京阪電車」という言葉をどこかで聞いたことがあるが、ことに競争の激しい京阪間で燦然と輝きを放つのが京阪電車である。
最近の関東の鉄道会社は右も左もステンレスむき出しの車両ばかりで、それはそれで別にいいのだが、鉄道ファンとしては何だか味気ない。それに対して京阪の車両は外装は綺麗に塗り分けられていて、車内も随所にこだわりが感じられ高級感が漂う。
日々の地獄のような通勤に疲れ、鉄道に対してネガティブなイメージばかりを持つ大方の関東人は、京阪の電車に乗ると、そのこだわりに対する感動と自身が毎日利用する鉄道会社との落差へのショックから本気で関西移住を模索し始める。
車内の広告には「京阪乗る人、おけいはん」と書いてある京阪の広告があったが、わざわざ自社の名前に丁寧の意味をあらわす接頭辞の「お」をつけた広告を車両に掲示しているのは(その言葉自体が人に対して使われるものであっても)、日本国内広しと言えども京阪だけではないだろうか。
普通列車と特急を乗り継いで終点の出町柳駅に着いたら、叡山電車へ乗り換える。
叡山電車には起点の出町柳駅から住宅街を北上し、宝ヶ池駅から鞍馬方面へ向かう鞍馬線と、東へ折れて八瀬に向かう本線の2系統がある。
鞍馬行きの列車には、1997年よりオレンジの塗装が美しい観光客向けの「きらら」という列車が走っているが、比叡山へのメインルートである八瀬方面へは長らく普通列車の運行が主であった。
そこでこの観光ルートの活性化の一環として今年登場したのが「ひえい」である。
この列車のプレスリリースを最初に見た時には、今まで見たことないようなユニークさに「とんでもねえやつが現れた」と鉄の界隈がざわついたが、さらにこの車両が新製車ではなく既存の車両からの改造だと聞いてまた驚いた。
車内に入ってまず目にするのは、縦に細長い楕円形の窓。その間に座席のヘッドレストを挟み込むレイアウトも生まれて初めて見たが、これはこれで面白い。内外装の色使いは、比叡の山の深い緑や神秘性を感じさせ、どこか不思議な気分になる。
出町柳から15分ほどで終点の八瀬比叡山口へ着く。周りを緑に囲まれた静かな駅で、開業以来からのレトロな木造駅舎が旅情を誘う。
ここからは叡山ケーブルと叡山ロープウェイでどんどん勾配を稼いでいく。
このルートの各交通機関は本数自体は多くないものの、基本的に接続時間をちゃんと考慮したダイヤ設定になっている。
八瀬比叡山口の駅で先ほど乗ってきた「ひえい」を撮影するのにすっかり夢中になっていた僕たちは、接続のケーブルカーを1分差で逃してしまい、次の便まで30分待つ羽目になってしまった。利用される方は注意が必要かもしれない。
ケーブルカーは1本の太いケーブルに車両が繋がれて、山上駅の巻上装置を動かすことで釣瓶式に勾配を登ったり降りたりする楽しい乗り物である。でももし突然山から巨人が現れて、くそでかい金切りばさみでケーブルを断ち切ってしまった瞬間、位置エネルギーの申し子となり、猛スピードで坂を駆け下り麓駅にぶつかってぺしゃんこになるのは想像に難くないので、やや緊張感を催す乗り物である。
だがそんな妄想をよそに麓駅を出発すると、ガタガタという揺れとともにゆっくりと進み、開けっ放しの窓からは心地よい風が入ってくる。たまに虫も一緒に入ってくるのも「自然がいっぱいだなぁ」と受け流せるほどの爽やかさである。
緑のトンネルを抜け、ケーブルカーとしては国内最大の高低差561mをわずか9分で登りきる。
ケーブルカーで坂道をガタゴト登ってきた後は、ロープウェイに乗り換えて空中散歩。
ケーブルカーから5分ほどの接続で乗車すると、眼下には京都洛北の街並みが広がり、美しさに思わず感嘆の声が漏れる。
ロープウェイを降りるとそこはもう比叡山の山頂。延暦寺へは歩いてバスにお乗り換え。
この辺でふつふつと思っていたのが、この京都から比叡山を登って滋賀へ降りるルート、交通機関はよく整備されていると思うが、各交通機関の間で結構歩かされる。特にこのロープウェイとバスの間は、歩く距離もさることながら、途中に「ここから急げば3分!」みたいな利用客を煽るような看板もある。
単に各々の交通機関が最短距離で行けるルートをとったら始発駅と終着駅がそこに決まったのか、それとも山の頂上まで交通機関を整備してやったんだからその間くらいは歩いて健康増進しろ、というメッセージなのだろうか。
夜行バスの中であまり眠れず、5時半から始動し始めて既に6時間以上経つと、疲労からかそんな下らないことを考える頭になってしまう。
ともかく歩いて歩いてバス停まで行き、比叡山を巡回するバスに乗った。バスに乗っている途中で、京都府から滋賀県に突入する。
もちろん比叡山内のバス料金も「世界遺産 比叡山延暦寺巡拝チケット」に含まれている。
延暦寺は、主に東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3つの地域の100ほどのお堂や仏塔の総称で、山内を徒歩でまわるにはあまりにも広い。各地域の移動にはバスを使う。
最澄の開いたこの寺院は「日本仏教の母山」と言われており、法然や親鸞、栄西に道元に日蓮といった、我が国の歴史に名を刻む仏教オールスターズが若い頃にこの延暦寺で修行をしていたという、仏教界の大阪桐蔭高校みたいなところである。
延暦寺参拝の拠点は東塔周辺にあり、バスセンターやお土産物屋さんに蕎麦屋さんもある。
平等院と三室戸寺が想像以上に楽し過ぎたのとケーブルカーを一本逃した所為でタイムスケジュールが崩れ、時刻は既に2時を回っていたので、そこの蕎麦屋さんで昼食をとり、息つく間もなく東塔の入り口から境内に入った。
まずは延暦寺の本堂にあたる根本中堂(こんぽんちゅうどう)を目指す。現在建っている建物は徳川三代将軍家光によって再建されたもので、再建された理由はもちろん織田信長による比叡山の焼き討ちによる焼失である。
歴史あるこのお寺に、信長は何てことしてくれたんだ、と思わなくもない。
ただ歴史上、延暦寺は教義の違いにより生じた軋轢から内部抗争を繰り返して武装化し、時の政権の言うことも聞かずドンパチやり合って、何度もスクラップアンドビルドを繰り返してきた経緯があるので、確かにあの瞬間湯沸かし器の信長の逆鱗に触れたらそうなるわな、と思わざるを得ない気もする。
ちなみに現在根本中堂は2016年から10年に及ぶ大改修の真っ最中であり、ジャンボジェットの格納庫かと見間違うくらい大きなプレハブの建物で覆われているため、外からその姿を見ることは出来ない。ただ内部はしっかり拝観できるようになっているのでご安心を。
それにしても、この改修には一体幾ら掛かるんだろうか。実際に見てみると、建物の規模が物凄い。しかも現代の建物とは工法が異なるから余計にお金が掛かるのは容易に推察できる。
全国的に名の知れた寺院のお坊さんにひとり知り合いがいるけど、それほど規模は大きくないものの、度重なる改修で未だに5億円以上の借金があると言っていた。それだけ古い建物を維持するということは大変なようだ。
延暦寺でも随時篤志のある方を募集しているようなので、是非我こそはというブルジョワジーの方々は協力なさっていただければと思う。
根本中堂を見学したあとは、バスセンターに戻って西塔へ移動しようと思ったが、そこでまたやらかしてしまった。西塔・横川方面のバスは僕らの到着する数分前に出ていってしまったのだ。
現在午後3時過ぎ。お寺の夜は早く午後4時には閉まるため、どうしようかと考えていた。すると西塔までは30分ほど歩けば着くと守衛さんが教えてくれたので、西塔まで歩き、そこから戻りのバスに乗ることにした。
かなり急いで歩いたので、20分ほどで西塔の中心である釈迦堂へたどり着いた。
戻りのバスは逃すまいというプレッシャーのせいか、途中にあった延暦寺の開祖・最澄のお墓をすっ飛ばしてしまったのはやや心残りだったが、なんとか時間内に釈迦堂へお参りをして、バスの時間に間に合わせることができた。
比叡山から滋賀方面へ下山するには、坂本ケーブルを利用する。このケーブル一本でほぼ麓まで降りることができるのでかなり距離が長く、路線長2025mは国内最長を誇る。
乗車する時は、麓のケーブル坂本駅に向かって左側に座ると良い。車窓から渓谷と、左奥に琵琶湖を望むことができる。
僕らは発車ギリギリの時間に駆け込んだので右側の座席しか空いておらず、揺れる車内で立ち上がるのは憚られたので渓谷の景色は見そびれてしまった。
今日1日だけでもうだいぶ歩いた。
傷付いた足の筋繊維たちが悲鳴を上げている。iPhoneの歩数計を見たら既に3万歩を超えていた。
そんな酷使した身体を少しでも癒そうと、おごと温泉で日帰り入浴をすることにした。
しかしながら何故かおごと温泉は公共交通機関から隔絶された地にあり、最寄りのおごと温泉駅から1.7kmも歩かなければならない。ちなみに駅から直接行けるバスは無い。ふざけている。
ムカついたのでタクシー代をケチって歩いたけど、疲れを癒しに行くためにさらに疲れる、という本末転倒な状況に頭が混乱して気づいたら口から罵詈雑言が漏れ出てくるようになってしまったので、素直にタクシーを使えば良かったと後悔している。
ただ温泉自体はとても良かった。
湯元舘という温泉旅館へお邪魔したが、まず入浴できるエリアが3つに分かれており、内風呂はもちろんサウナと水風呂に加えて、最上階の露天風呂(男女入れ替え制)からは琵琶湖を一望できる何とも贅沢な施設でテンションと血圧が急上昇。泉質はアルカリ性の単純温泉で、入浴後は肌がとても滑らかになった。
温泉でさっぱりしたら、再び歩いておごと温泉駅へ戻り、JRと京阪石山坂本線を乗り継いでびわ湖浜大津駅で下車する。
駅から歩いて5分の「東横イン京都琵琶湖大津」という、滋賀県大津市にあるのにも関わらず名称に京都の治外法権が発動しているホテルにチェックインした。
温泉に入ってHPが7割方回復した僕らは、せっかく京阪全線使える切符を持っているので、祇園の街へ晩御飯を食べに行こうということになったのである。
祇園の街へ行くといっても別に芸者遊びをするわけではなく、目的はラーメン屋で、しかもその店は期待したほどの味ではなかったのでここでは言及しない。
それよりも夜の京都の街がとても良かった。
生暖かい夜風を浴びながら、鴨川のほとりで騒いでいる大学生の群れを三条大橋の上から眺め、コンビニで購入した酒を飲んで他愛もない話をして、鴨川の河川敷に降りたら等間隔に並んでいるカップルの間に陣取って、ひたすら川の流れを眺めた。
なぜこれほど京都の街に魅力を感じるのだろう。
歴史を色濃く感じられるからなのか。
建物の高さ制限が均衡の取れた街並みの美しさを保っているからなのか。
修学旅行の追体験ができるからなのか。
京言葉が魅力的だからなのか。
きっと人それぞれが思う色々な要素が重なりあって、他のどの場所とも違う "京都ならでは" みたいな概念が、人々を京都へいざなっている気がする。
その後しばらく花見小路を散歩して、途中で裏通りみたいなところに紛れ込んだけど、客引きのお兄さんたちに全然相手にされないのを「よっぽど金持ってなさそうに見られてるんだな」とゲラゲラ笑った。
とても良い夜だった。
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